Я[大塩の乱 資料館]Я
2013.4.13

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「大塩の乱関係論文集」目次


『民本主義の犠牲者大塩平八郎』

その117

相馬由也

開発社 1919

◇禁転載◇

十六、叛逆か大不敬か (5) 管理人註
   

                            あやまち  駿河守は其『不敬』といふ意味を説明して、『たとへば人、過あると き、再三反覆して之を諫むるは忠といふべし、再三忠告せる上にも、其          いきどほ 人不用として之を憤りて、坐にあり合へる火鉢などを、其人の面へ投 るは、不敬の至極なり、初には其人を愛するあまりに忠告し、後には其           いずく 面体へ疵を付けなば、安んぞ其人を愛するにあらん、平八郎も初は忠告 すれども、用ひられざるを憤り、叛逆を企しは此類なり』といつて居る が、言々句々、皆彼が久しく平八郎と交つた実験を根拠としての話であ      こうけい るから、其肯綮を射て居るに不思議なく、そして駿河守は唯之を客室の 閑談に止まらしめず、当時勘定奉行の職に居つて、堂々此議を主張し、 何とぞ叛逆の科を除き、大不敬の罪に処したいといつたが、其議の用ひ                            そし られぬのみならず、叛逆人の肩を持つものとして、駿河守は譏られたと いふ事である。即ち駿河守の考へた通り平八郎は全く大阪市民の可愛く、 其惨状を見る事の意地らしさに、色々骨も折り、建言もし、建策もした            はゞ                  くわくど が、而かも是れが、尽く沮まれ、行はれざるに及んで、忽ちに大王赫怒      もろ/\           して、彼の 庶 を誅すといつた意気だ起つたものと認めるが至当であつ て、国法遁れ難しとすれば、大不敬の罪案を具して処罸してこそ平八郎 も承服する訳、而して大阪市民は勿論、全日本国民も、それなら理不尽 でもないと合点もしやうが、左も無いと、死せる平八郎のみならず、大                     そばだ 阪市民は勿論、全日本国民も、所謂道路目を側てゝ、威服しても心服は しないであらう。併し駿河守の此主張は、余りに俗見と飛び離れ過ぎて、 当時の吏情からすれば、寧ろ其行はれなかつた方が、已むを得ぬといふ よりも、当然であつたらうと思ふ。                       しるし  それは兎もあれ、果せる哉、此駿河守の意見に験有り、間も無く思ひ 当るに足る事変が現れた、大塩乱後の大阪では、両町奉行等の恐怖は譬 ふるに物なく、直に全市に向つて極端なる箝口令を布いたので、剣客斎                              じんき 藤弥九郎の当時の話に拠るに、『大阪へ着いたし候へば、大阪は人気取 鎮めの為め歟歟、町奉行所より芝居興行等の儀、精々世話有之、湯屋 髮結所等へは世上の取り沙汰、善悪によらず申間敷候旨、張札有之、 平八郎の事など少しも咄出来兼候模様にて、却て江戸表程にも風説不 相分差支候処云々』、といふ事が、能く其事情を尽して居る。彼等は 是を以て小心翼々、破壊思想の伝播を防いだのであつたらうが、成程其 心労空しからず、腹に大塩様と敬称して居る大阪市民丈は兎に角其高圧 力の下に屈したけれども、其年の六月十日に、越後柏崎の幕領に一揆蜂      あつま 起し、徒党聚るもの三千人、皆大塩平八郎の残党也と称し、一時勢頗る しやうけつ               ぼく 猖獗であつたといふ。以て人心の反響を卜すべきでないか、此の如き事 が三びし、四びし、五びすれば、其結果は知るべきのみ、遂に驚天動地 の一大活劇が持起らずんば、幸なのである。秦を亡して之に代つた者は、 勿論漢高祖だ。けれども秦の鼎の軽重を先づ問うたもの、陳勝、呉広で あつた、如何なる大革新にも必ず陳勝、呉広が起る。第二の陳勝、呉広 が失敗すれば、第三の陳勝呉広が起る、第四第五と相継いで起るが、而 も、後者程其勢力の強大を加へ来るを常とし、而して其最後に現れた者    が、彼の漢の高祖となる、是が為政者の常に人心の機微に注意し、僅の 風雲の変態にも警戒して、禍端を未発に防ぐの工夫無からざるべからざ る所以である。



徳富猪一郎
『近世日本国民史』
その70












肯綮
物事の急所、
かなめ











赫怒
激しく怒ること





























藤田東湖
「浪華騒擾記事猖獗
猛威をふるう
こと


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