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平八郎が武芸に志した事は、玉造口御先手与力本多為介の談話を録し
た東湖の浪速騒擾記事等にも明かに記されて居る事だけれど、如何様の
ものに熟達して居たかは明かでないが、槍術にだけは長技を有し、且頗
る執心であつた事は、彼が西宮勤番、並に兵庫勤番中其師柴田勘兵衛に
しよかん
宛てた書柬の中に、「六月勤番中、姫路御家中何某と申もの、宝蔵院之
いりみ
師範之由にて、西宮勤番所之同心どもへ致教授候に付、私にも入身い
たし候様申勧め、勿論稽古之儀に付、素槍を為取入身いたし、面白き
稽古を一月中仕、右之御咄等を参上可申上と奉存候由」、「在番中
ふ いざない
閑暇に堪かね、殊に執心の芸技、膝元にて稽古之響耳に徹し、風と誘に
ふ
乗じ試み候云々」とあるので知れるが、是も何歳の時に入門したのか分
さう
らぬ。柴田勘兵衛は玉造口の与力で、佐分利流槍術の指南であつた相だ
が、平八郎は此柴田から免許を取つて居る。其他の武芸に就いては一向
分らぬが、鉄砲は余り得意ではないらしく、其証拠には後の暴動の時に、
平八郎の放つた弾丸に一人も倒れなかつたといふ。想ふに彼の長技は最
ひつさ
も槍に在つたのであらう。暴動の時にも槍を提げて出たので、敗れて遁
げた時には之を棄てて拾はれて居る。然らば其兵庫、西宮、両地の勤番
は何歳から何歳迄勤めたか、是も定かに知るべき史料を欠くが、此勤番
は大底若輩のする事だから文化年間の事であらうといふ説がある。
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藤田東湖
「浪華騒擾記事」
幸田成友
『大塩平八郎』
その168
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