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然らば彼は幾歳から学問に志し、何処で誰に師事したか、当時大阪に
てんいんしや
は中井竹山の奠陰社があつたから、其処で詞章訓詁を授かつたかも知れ
や ゝまこと
ぬといふ事は稍々真に近さうな想像で、現に其様に書いてある者もある
けれども、固より確証はない。次に江戸遊学説もあり、或は十五の時と
か、或は十八の時とか、或は二十の時とか、色々に書いたものもあるけ
ぢやう あきら
れども、其二十一歳の時定町廻を勤めた事が明かであるのと、又初に述
こゆ
べた「依違因循、年踰二十」といふ平八郎自身の文と符号して居る以
上は、如上の年齢説は皆誤つて居るが、更に考ふるに、文政元年、彼の
二十六歳の時に、祖父の政之丞成余は享年六十七を以て没し、それより
彼は家督を相続して天保元年迄勤続し居り、其間に目安役、証文役より
吟味役に進んで来たので、到底遊学の期はないのであつた、然らば祖父
の死去前数年の間に遊学したかと考へて見ても、父母が七歳の時に共に
つ
死んだので、早く祖父の職を承がなければならなかつたといつた彼の書
らうるゐ
面の文意からすると、到底老羸の祖父を独り残して出掛け得る家庭の事
うち
情でなかつたと思ふ。けれども佐藤一斎に与ふる書面の中には「祭酒林
そもそ
公亦愛僕人也」とある。是が抑も平八郎の江戸遊学を想像させる種に
なるらしくもあるが、是は曾て林家の用人某が、平八郎の同僚八田衛門
太郎の処へ、林家の家政改革の必要上、千両の頼母子講を大阪で作る運
動に来て居たので、其処へ来合はせた平八郎が、それは体面に係るから
とて頼母子講を断念させ、翌朝辰の刻(今の八時)に其某を自邸に招き、
富家の門弟三人に謀りて自ら調達し得た金千両を渡し、狂喜する某を猶
引留め、大学頭の御土産にまだ御聴に入れるものがあるとて、塾生十名
を呼出し、某の面前で経書を暗誦させた。某は恐入つて厚く礼を述べて
帰つたといふ事があるから、それから文書の上で林家と往復し、相識る
間となつた丈で、顔は見て居らぬと思ふ。若し然らずして実際彼が林家
に学んだとするならば、文化二年は平八郎十三歳の時だが、此年から林
家の塾長をして居る一斎が、少しも平八郎を知らぬ筈はあるまい。然る
しよかん
に彼等の間に往復して居る天保以後の書柬に於て、絶えて相見た事も、
こと
それ迄知つた事も無い事が明記してある筈はない。特に祭酒林公も亦僕
を愛する人也と、平八郎をして自覚し、明言せしむる程に、面授を受け
て居るものとすれば、それ程の師弟の関係が、独り林祭酒にのみ結ばれ
ま
て一斎に結ばれぬ事があらうか。況して平八郎とも有らう者が、他の常
をは
鱗凡介の間に混じて何等の異彩をも放たずに了らう筈も無からうではな
いか。
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幸田成友
『大塩平八郎』
その10
「寄一斎佐藤氏書」
幸田成友
『大塩平八郎』
その174
老羸
年とってからだ
が弱ること
幸田成友
『大塩平八郎』
その77
相蘇一弘
「大塩の林家調金
をめぐって」
常鱗凡介
凡庸な人間の
たとえ
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