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独りそれのみならず、芸州の儒者吉村晋が「江都に遊び、司成林氏之
門に入り、業を佐藤一斎に受くる事数年」と平八郎退隠の翌年頃か、多
しよどく
分天保二年の一月頃かと思はるる時に、平八郎に贈つた書牘中に記せる
にも拘らず、其留学中には何等平八郎に就いて聞く所なかつたものの如
く、何とかして偉人を得て、之に従游せんとの志を抱き、之を口外して
く ゝ げつりつ さうりよ
は世人に笑はれ乍ら、三十余歳の其頃迄々孑立志を芸州の旧草廬に養
このごろ スルニ ヲ ニ リ ナル ヅル
つて居つたが、「往時仄聞道路紛々之言、大阪有大塩君者出焉、才
リ テ ヲ
識雋偉、学有根柢、而治獄立異績人々積頌云々」と其書牘の中に説
せうちよく
き、自己の名を自ら通じて、向後教を仰がん事を求めて居る。峭直、鋭
脱の性に富む平八郎が、斯う迄林家の塾に居る間に、何人も存在を記憶
されずに了らう筈もなく、又今少し林家に育つた儒林の間に交遊も広か
たまた
り相なものであるが、其事なく、偶ま残つてある十数氏の消息文を見て
もんじ
も、皆面識なく唯文字を通じての情誼に因るのである。それ故、何とし
か
ても彼の江戸遊学は無稽の造説と断ぜざるを得ない。従つて彼が鈴鹿山
おひはぎ おびや
中に剽盗に却かされて却て彼等を懲したといふ武者修行流の痛快な手柄
ばなし
譚や、吉原に遊んで一夜に百韻の詩を作つたとかいふ天才譚が、固より
根無し草の拠所なき妄説である事は言ふ迄も無い。
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々
ひとりでさびし
げに歩くさま
孑立
ひとりぽつんと
立つこと。孤立
『洗心洞箚記』
その26
雋偉
(しゅんい)
才知がすぐれて
いて普通の人と
異なること
峭直
きびしく正しい
こと
「天満水滸伝」
その3
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