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テ ツテ ニ テ ミ ヲ メ ヲ
すれば平八郎の一斎に与ふる書牘中の「甞従儒以読書窮理而後愈
ニ イテ ニ ス
矣、故就儒問学焉」とある。其儒に就いた事は、必ず大阪で有つて、
其師が果して竹山であつたか、誰であつたかは知らぬけれども、其処で
にち/\ ぬす
日々の勤務の余暇を偸んで、独り訓詁詞章を授かつたに過ぎなかつたで
さ う
あらう。如何にも左様としか想へぬ意味が矢張り右の書牘中に在る。即
レ ハ クル レバ ニ ズ ナリ ミ ヲ ス ヲ ニ エ リテ
ち「夫儒之所授、非訓詁必詩章矣、僕偸暇慣習之、故不覚陥於
ニ ラ ス ニ ヲ テ シ ヲ ヒ ル ニ リ ヲ
其曰、而自化之、是以聞見辞弁、掩非飾言之具、既在心口、
ク タリ テ キニ ヨリ フニ ニ ク カラン カ
而侈然無忌憚、似病却深乎前日矣、顧与其志径庭、能無悔乎、
テ ニ イテ ス ンド カラ ス
於是退独学焉、困苦辛酸、殆不可名状也、云々」とあるのがそれで
きふ
あつて、若し笈を負うて江戸に遊び、悠々祖父の贈る学資に衣食して居
い か ぬす
る身であつたならば、如何して暇を偸み之を慣習する必要が起らう。又
此書牘は現に林家の塾長たる一斎に与ふるものでないか、然るに其自に
就いて学んだ所の儒を罵つて、儒の授くる所は訓詁に非れば詞章也とい
ふ事は、林家を罵ると共に、併せて一斎に迄も累するものとなる事は明
瞭である。如何に平八郎と雖も、此妄語を敢てすべくも無く、而して一
さう
斎も亦如何に世故に老いたりと言つても、之を甘受し相には想はれぬ。
江戸遊学説は愈愈以て架空也と断じ去つて差支なく、彼が天保元年に玉
造口与力阪本鉄之助に与へた書翰中に、「私義、尾陽本家之者、神君様
より拝領之御弓持伝、代々拝見に下り、私義勤番中、多事故得参不申、
ひま いうけん
此度退隠隙に相成候に付、秋末より参、御方にて游倦、当月二日に帰阪
仕候、夫故貴答延引御免可被下候云々」とあり、日附が十一月十六日と
あるのを見れば、是は其退隠の年の秋七月を以て名古屋に赴いた頃の物
であるが、名古屋の本家へ一代一度、必ず拝見に出る大塩家の先祖波右
衛門が家康より拝領の御弓をさへ、公務の忙しさに拝見に往かぬといふ
次第だから、是も亦江戸遊学否定の傍証たる価値あると同時に、平八郎
が役向出仕の間は、余り遠く郷里を離れた事が無かつた様に想はれる。
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幸田成友
『大塩平八郎』
その174
幸田成友
『大塩平八郎』
その180
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