|
勿論浪速騒擾記事に在る本多為助の談話にも「常々遠足をもなくし、
備前岡山へ罷越候節は、例の正一郎(天保六年三月に入門したる大井正
一郎)を召連れ、昼過ぎ十五里歩行致候事も有之程に候間云云」とあり、
されば隠居後の事であるけれども、其健脚の程は是で知れる。更に又天
保七年の秋甲山に遊んだ時の詩にも、「曾游二十二年前」といふ詩句を
も作つて居る所を見れば、其の曾游は多分文化十一年、彼が二十二歳頃
の事らしく、若い時から遠出を好んだ様に想はれる。京都へは豊田貢の
疑獄事件もあるから、山陽との交際以外に已に隠居前より往来して居ら
うし、附近の摂、河、泉、播、扨は岡山辺迄も足跡を印して居らうかと
察するが、其学問は字を知り、文を解する丈の事に師恩を受けただけで、
どくけい
其他は全然彼の独詣と信じて然るべく、其一斎に与ふる書牘中の「於
リ ブ ンド カラ ス
此独学焉、困苦辛酸、殆不可名状」とある句を其儘に受取つて差支
あるまい。
やゝ
即ち是を以て見ると、彼は稍長ずるや否や、直に俗吏の間に交り、俗
よはひ
吏の空気を呼吸して三十七八の齢を重ねたので、満眼唯功利の人、益を
わづか べんせん えんゑつ じやうき
求むるは纔に晩に衙門より帰りて鞭を棄て、簷に寒蝉を聴いて浄机
に対し、乱抽する満架の書。即ち洗心洞裏の古聖賢あるのみであつたの
である。今幸田成友の筆に成る「大塩平八郎」に在る文字を借りて、其
大塩邸の有様を記して見ると斯うである。「間取は委しく解らぬが、玄
関を上つて右へ往けば塾、左へ往けば講堂、講堂の後が書斎、それから
勝手向となる、講堂を読礼堂、書斎を中斎といひ、講堂の西側には王陽
明が龍場の諸生に示せる立志、勧学、改過、責善の四篇を掲げ、東側に
ことば
は呂新吾の学に関する語十七條を掲げ、共に文政八年正月十四日と記し、
別に同年四月を以て謹書した銭緒山の天成篇を掲げ(掲出の場所不明)、
又勝手向には鏡中観花館と題する額があつて、塾生は決して之に出入す
るを得ぬ。本箱は玄関から講堂書斎へかけて二三段に積上げ、土蔵中に
は一切経もあつた。塾は新塾旧塾の二に分れ、旧塾は平八郎の居宅に続
さ だ
き、新塾は東隣の空屋を補理したもので云々」。彼が後年志蹉して大
阪を落延びた時の人相書には、「一、年齢四十五六歳、一 顔細長く色
白き方、一 眉毛細き薄き方、一、額開き月代青き方、一、眼細くツリ
候方、一、鼻、常体、一、耳、常体、一、セイ常体中肉一、言舌サハヤ
カニ而、尖き方云々」とあり、平八郎の門人疋田竹翁の話によれば、
「先生は中々美男で御座りました。身の丈は五尺五六寸、少し瘠せぎす
ですが、凛とした風采はそりや立派なものです。頭の髷は短う結うて居
りましたが、色は白い方で、眼はあまり太くなく、少し釣つて居りまし
たから、少し怒を含まれた時などは、どんなものでもビリつきましたね」
とある。平八郎は早く肺を患ひて危篤と思はれた事が再三に及んだ。夙
たの
に両親を喪つて、唯さへ孤寂に育ち、成年にして親とも怙む祖父を喪つ
さひはひ
たので、其哀傷の病勢を助けた事一層であつたが、倖にも其後に彼の病
かたま
勢は固滞つて治癒的状態を示したとはいふけれども、併し斯かる体質で
あるから、それが其気質に影響し、更に外貌にも現れたものらしく、又
しゆんせう
言動にも発して何処となく峻峭の風格を示したらしく想像される。譬ば
ここつ さうしん はう かつぜん かたち
孤鶻の霜晨に摶つが如く、戞然長鳴すれば、天地も粛として容を改める
てい
底に感ぜられたものであらう。
|
藤田東湖
「浪華騒擾記事」
簷
軒先の木かげ
幸田成友
『大塩平八郎』
その70
「御触」(乱発生後)
その2
幸田成友
『大塩平八郎』
その54
峻峭
きびしいさま
戞然
堅い物が触れ
合って音を発
するさま
|