Я[大塩の乱 資料館]Я
2012.12.1

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「大塩の乱関係論文集」目次


『民本主義の犠牲者大塩平八郎』

その38

相馬由也

開発社 1919

◇禁転載◇

五、洗心洞裏の平八郎 (5) 管理人註
   

 勿論浪速騒擾記事に在る本多為助の談話にも「常々遠足をもなくし、 備前岡山へ罷越候節は、例の正一郎(天保六年三月に入門したる大井正 一郎)を召連れ、昼過ぎ十五里歩行致候事も有之程に候間云云」とあり、 されば隠居後の事であるけれども、其健脚の程は是で知れる。更に又天 保七年の秋甲山に遊んだ時の詩にも、「曾游二十二年前」といふ詩句を も作つて居る所を見れば、其の曾游は多分文化十一年、彼が二十二歳頃 の事らしく、若い時から遠出を好んだ様に想はれる。京都へは豊田貢の 疑獄事件もあるから、山陽との交際以外に已に隠居前より往来して居ら うし、附近の摂、河、泉、播、扨は岡山辺迄も足跡を印して居らうかと 察するが、其学問は字を知り、文を解する丈の事に師恩を受けただけで、        どくけい 其他は全然彼の独詣と信じて然るべく、其一斎に与ふる書牘中の「於   リ ブ       ンド カラ  ス 此独学焉、困苦辛酸、殆不名状」とある句を其儘に受取つて差支 あるまい。              やゝ  即ち是を以て見ると、彼は稍長ずるや否や、直に俗吏の間に交り、俗               よはひ 吏の空気を呼吸して三十七八の齢を重ねたので、満眼唯功利の人、益を     わづか          べんせん       えんゑつ       じやうき 求むるは纔に晩に衙門より帰りて鞭を棄て、簷に寒蝉を聴いて浄机 に対し、乱抽する満架の書。即ち洗心洞裏の古聖賢あるのみであつたの である。今幸田成友の筆に成る「大塩平八郎」に在る文字を借りて、其 大塩邸の有様を記して見ると斯うである。「間取は委しく解らぬが、玄 関を上つて右へ往けば塾、左へ往けば講堂、講堂の後が書斎、それから 勝手向となる、講堂を読礼堂、書斎を中斎といひ、講堂の西側には王陽 明が龍場の諸生に示せる立志、勧学、改過、責善の四篇を掲げ、東側に           ことば は呂新吾の学に関する語十七條を掲げ、共に文政八年正月十四日と記し、 別に同年四月を以て謹書した銭緒山の天成篇を掲げ(掲出の場所不明)、 又勝手向には鏡中観花館と題する額があつて、塾生は決して之に出入す るを得ぬ。本箱は玄関から講堂書斎へかけて二三段に積上げ、土蔵中に は一切経もあつた。塾は新塾旧塾の二に分れ、旧塾は平八郎の居宅に続                             さ だ き、新塾は東隣の空屋を補理したもので云々」。彼が後年志蹉して大 阪を落延びた時の人相書には、「一、年齢四十五六歳、一 顔細長く色 白き方、一 眉毛細き薄き方、一、額開き月代青き方、一、眼細くツリ 候方、一、鼻、常体、一、耳、常体、一、セイ常体中肉一、言舌サハヤ カニ而、尖き方云々」とあり、平八郎の門人疋田竹翁の話によれば、 「先生は中々美男で御座りました。身の丈は五尺五六寸、少し瘠せぎす ですが、凛とした風采はそりや立派なものです。頭の髷は短う結うて居 りましたが、色は白い方で、眼はあまり太くなく、少し釣つて居りまし たから、少し怒を含まれた時などは、どんなものでもビリつきましたね」 とある。平八郎は早く肺を患ひて危篤と思はれた事が再三に及んだ。夙                          たの に両親を喪つて、唯さへ孤寂に育ち、成年にして親とも怙む祖父を喪つ                        さひはひ たので、其哀傷の病勢を助けた事一層であつたが、倖にも其後に彼の病   かたま 勢は固滞つて治癒的状態を示したとはいふけれども、併し斯かる体質で あるから、それが其気質に影響し、更に外貌にも現れたものらしく、又             しゆんせう 言動にも発して何処となく峻峭の風格を示したらしく想像される。譬ば ここつ  さうしん  はう         かつぜん             かたち 孤鶻の霜晨に摶つが如く、戞然長鳴すれば、天地も粛として容を改める てい 底に感ぜられたものであらう。


藤田東湖
「浪華騒擾記事
軒先の木かげ



幸田成友
『大塩平八郎』
その70





















「御触」(乱発生後)
 その2






幸田成友
『大塩平八郎』
その54


















峻峭
きびしいさま

戞然
堅い物が触れ
合って音を発
するさま


『民本主義の犠牲者大塩平八郎』目次/その37/その39

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