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併し平八郎は孔孟学の本筋を守り、礼を以て堅く情を制して居たけれ
も
ども、固と是れ熱い易き性分の人で、従つて血気盛なる時には多少の瑕
瑾も有つたらしく、学則の中には、登楼縦酒の放逸の行が一回あつても
けん おなじ しか
廃学荒業の譴と同く、購書寄附の過怠を命ずるか、否らざれば、鞭朴若
干と威嚇して居る点は、如何にも厳格なものだが、それは後年学徳成就
むかしがたり
の後の事で、彼の若い昔語は、何よりも雄弁に彼の妾のユウの出所が物
語つて居る。即ち其ユウは、曾根崎新地壱丁目大黒屋和市の娘で、当時
ひろと云つたのを、平八郎が慇懃を通じ、自分の身柄を考へ、世間体を
繕ふ為に、文政元年頃、般若寺村忠兵衛の妹分として大塩家に迎へ入れ
たといふ。此瑕瑾は、多分平八郎廿五六、ゆう二十か二十一の頃と察せ
られるが、是が抑も彼が終生正妻を迎へなかつた所以で、さればとて階
級的感情の盛な当時の事とて、流石にユウを正妻に引上げる訳には往か
なかつたものと想へる。
彼が一斎に与へた書牘中に、自己の志の三変を明かに自白して居るが、
それに因ると、十五の頃に家系の賤しからざるを知り、功名気節を立て
いんじゆん
て、祖先の志を継がんと欲したが、境遇に支へられて志立たず、因循年
二十を踰えた。然るに相役は無学で、一人の益友も無い、それから儒に
就て学を問うたが、儒の授る所は訓詁詩章に止まり、自分も之を慣習し
て、非を掩ひ、言を飾るのみ、言のいつしか心口に在り、心の病は前日
あがな
より甚しい、其中に舶来の寧陵の呻吟語を購つて読み、初めて恍然とし
おぼゆ
て覚るものあるが如く、是より陽明の学に尋ね入つたと言つて居るのと
対照すると、非を掩ひ言を飾るの言のみ、いつしか心口に在つた時代も
たま/\ かつ
想像される。従つて後年彼が塾生を戒めた所は、偶々彼が曾て自ら陥つ
あやまり ふたゝ
た誤で、所謂る冷暖自知、自己の経験した苦痛を二び他の子弟に味はせ
まいとする親切気からではなからうか。
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石崎東国
『大塩平八郎伝』
その28
幸田成友
『大塩平八郎』
その174
冷暖自知
水のつめたさ
暖かさは、自
分で手を入れ
て初めて感知
できること
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