Я[大塩の乱 資料館]Я
2013.1.23

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「大塩の乱関係論文集」目次


『民本主義の犠牲者大塩平八郎』

その67

相馬由也

開発社 1919

◇禁転載◇

九、退隠と其後の生活 (7) 管理人註
   

 併し平八郎は孔孟学の本筋を守り、礼を以て堅く情を制して居たけれ     ども、固と是れ熱い易き性分の人で、従つて血気盛なる時には多少の瑕 瑾も有つたらしく、学則の中には、登楼縦酒の放逸の行が一回あつても      けん おなじ               しか 廃学荒業の譴と同く、購書寄附の過怠を命ずるか、否らざれば、鞭朴若 干と威嚇して居る点は、如何にも厳格なものだが、それは後年学徳成就           むかしがたり の後の事で、彼の若い昔語は、何よりも雄弁に彼の妾のユウの出所が物 語つて居る。即ち其ユウは、曾根崎新地壱丁目大黒屋和市の娘で、当時 ひろと云つたのを、平八郎が慇懃を通じ、自分の身柄を考へ、世間体を 繕ふ為に、文政元年頃、般若寺村忠兵衛の妹分として大塩家に迎へ入れ たといふ。此瑕瑾は、多分平八郎廿五六、ゆう二十か二十一の頃と察せ られるが、是が抑も彼が終生正妻を迎へなかつた所以で、さればとて階 級的感情の盛な当時の事とて、流石にユウを正妻に引上げる訳には往か なかつたものと想へる。  彼が一斎に与へた書牘中に、自己の志の三変を明かに自白して居るが、 それに因ると、十五の頃に家系の賤しからざるを知り、功名気節を立て                              いんじゆん て、祖先の志を継がんと欲したが、境遇に支へられて志立たず、因循年 二十を踰えた。然るに相役は無学で、一人の益友も無い、それから儒に 就て学を問うたが、儒の授る所は訓詁詩章に止まり、自分も之を慣習し て、非を掩ひ、言を飾るのみ、言のいつしか心口に在り、心の病は前日                    あがな より甚しい、其中に舶来の寧陵の呻吟語を購つて読み、初めて恍然とし おぼゆ て覚るものあるが如く、是より陽明の学に尋ね入つたと言つて居るのと 対照すると、非を掩ひ言を飾るの言のみ、いつしか心口に在つた時代も                       たま/\   かつ 想像される。従つて後年彼が塾生を戒めた所は、偶々彼が曾て自ら陥つ あやまり                   ふたゝ た誤で、所謂る冷暖自知、自己の経験した苦痛を二び他の子弟に味はせ まいとする親切気からではなからうか。



石崎東国
『大塩平八郎伝』
その28


























幸田成友
『大塩平八郎』
その174 
















冷暖自知
水のつめたさ
暖かさは、自
分で手を入れ
て初めて感知
できること


『民本主義の犠牲者大塩平八郎』目次/その66/その68

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