Я[大塩の乱 資料館]Я
2013.1.24

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「大塩の乱関係論文集」目次


『民本主義の犠牲者大塩平八郎』

その68

相馬由也

開発社 1919

◇禁転載◇

九、退隠と其後の生活 (8) 管理人註
   

 倅の格之助には、右の忠兵衛の娘ミネを十歳ばかりの頃から貰つて養         めあ             あひだ 育し、成長の後に娶はせ、天保七年十二月に、其間に弓太郎といふ男子                       いつはり が生れたが、後日評定所の吟味書に依ると、是は偽で、事実は、平八郎 が四年以前よりミネと私通して居つて、其間に挙げた子だ、そこで、別 に平八郎の叔父宮脇志摩からの貰ひ子、イクといつて当年九つになるの を、改めて行く/\は倅格之助の配偶とする事に内定しであるのだとあ                           ざんそ るけれども、是は畢竟返り忠をした吉見九郎衛門の虚構の讒訴に基いた           へうきよ もので、他には何等の憑拠すべき事実が無いとの説があるが、如何にも さ う 左様に相違ない。ユウは彼の弓削事件の際に大塩家から暇が出て、一旦          ちはつ 忠兵衛方の別宅に薙髪して居たのであたが、弓削事件も無事に落着した 後、間も無くイク貰受の頃に、其養育の為め戻れと言はれて戻つた事等 が、一層それを裏書する。其後、天保八年二月七日に、ユウは又ミネ、               かた/゛\ イクの二人を連れて、病気保養旁といふ口実の下に、中忠兵衛に預けら れる事となつたといふ。  平八郎の家族としては是だけであつたが、其外に召使としては、曾我 岩蔵といふ若党や、木八、吉助といふ中間や、杉山三平といふ寄宿生の 炊事方や、リツ、ウタの二人の下婢も居り、随分多人数の生活をして居 たから、費用も相応に要つたであらう、常に十数人の塾生が居たらしい        まかなひひ けれども、その賄費の幾分の所得を以て生計を補ふ様な事は出来なかつ                  へき たに相違なく、其上に平八郎には購書癖が有つたから、家系は頗る窮し                            おほよ て居たらしい、それは次の書林河内屋吉兵衛に与へた書面で大凡そが知                      あがな れる。是は吉兵衛が紀見某より顔真卿の筆蹟を購つて、更に平八郎に売 附けやうと其品を置いて往つたが、其後平八郎よりは品を止め置いた儘 代金を払はずにあつたから、別に宜しい売口が見附かつたが、如何する かといつて尋ねて寄越したものらしい。其積りで読めば、意味が自ら明 瞭にならう。


石崎東国
『大塩平八郎伝』
その93

幸田成友
『大塩平八郎』
その190 








憑拠
よりどころ































幸田成友
『大塩平八郎』
その185 


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