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倅の格之助には、右の忠兵衛の娘ミネを十歳ばかりの頃から貰つて養
めあ あひだ
育し、成長の後に娶はせ、天保七年十二月に、其間に弓太郎といふ男子
いつはり
が生れたが、後日評定所の吟味書に依ると、是は偽で、事実は、平八郎
が四年以前よりミネと私通して居つて、其間に挙げた子だ、そこで、別
に平八郎の叔父宮脇志摩からの貰ひ子、イクといつて当年九つになるの
を、改めて行く/\は倅格之助の配偶とする事に内定しであるのだとあ
ざんそ
るけれども、是は畢竟返り忠をした吉見九郎衛門の虚構の讒訴に基いた
へうきよ
もので、他には何等の憑拠すべき事実が無いとの説があるが、如何にも
さ う
左様に相違ない。ユウは彼の弓削事件の際に大塩家から暇が出て、一旦
ちはつ
忠兵衛方の別宅に薙髪して居たのであたが、弓削事件も無事に落着した
後、間も無くイク貰受の頃に、其養育の為め戻れと言はれて戻つた事等
が、一層それを裏書する。其後、天保八年二月七日に、ユウは又ミネ、
かた/゛\
イクの二人を連れて、病気保養旁といふ口実の下に、中忠兵衛に預けら
れる事となつたといふ。
平八郎の家族としては是だけであつたが、其外に召使としては、曾我
岩蔵といふ若党や、木八、吉助といふ中間や、杉山三平といふ寄宿生の
炊事方や、リツ、ウタの二人の下婢も居り、随分多人数の生活をして居
たから、費用も相応に要つたであらう、常に十数人の塾生が居たらしい
まかなひひ
けれども、その賄費の幾分の所得を以て生計を補ふ様な事は出来なかつ
へき
たに相違なく、其上に平八郎には購書癖が有つたから、家系は頗る窮し
おほよ
て居たらしい、それは次の書林河内屋吉兵衛に与へた書面で大凡そが知
あがな
れる。是は吉兵衛が紀見某より顔真卿の筆蹟を購つて、更に平八郎に売
附けやうと其品を置いて往つたが、其後平八郎よりは品を止め置いた儘
代金を払はずにあつたから、別に宜しい売口が見附かつたが、如何する
かといつて尋ねて寄越したものらしい。其積りで読めば、意味が自ら明
瞭にならう。
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石崎東国
『大塩平八郎伝』
その93
幸田成友
『大塩平八郎』
その190
憑拠
よりどころ
幸田成友
『大塩平八郎』
その185
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