Я[大塩の乱 資料館]Я
2003.2.10訂正
2002.4.10

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大塩の乱関係史料集目次


『天 満 水 滸 伝』

その13

石原干城(出版)兎屋誠(発兌) 1885

◇禁転載◇

適宜、読点を入れ、改行しています。


 ○大塩平八郎隠居して大望を企つ (2)

(さる)からに、平八郎ハ、追々世の中の事どもの、堪忍び難き事のみ多く、兎角に御政事に不快を抱き、朝令暮替を誹謗して、慷慨悲憤止む時なく、殊に此頃ハ凶年続きて米価日を逐(おひ)沸騰し、商家も農家も一同に困窮するを頻に嘆き、是等も畢竟御制度の正しからざる故なりとて、先大坂の窮民輩(ども)の饑寒に迫るを救はんにハ、鴻池米平三井岩城が貯ふ処の巨万の金を、過分に取上、夫々へ分ち与へられんを隠居の身ながら悴格之助と連署して、跡部山城守どのへ上書せしに、奉行は是を用ひられず、

(こゝ)において平八郎ハ大ひに怒り憤り、奉行山城守どのを不明なりとし、其無得心を恨みけるが、此処に忽地(たちまち)激発して、先貧民の悩める者を救はんものとて、多年来貯へ置し書籍をバ、一巻だも取遺さず、北久宝寺町の書林にて、河内屋新次郎といふへ沽却(うりわた)し是を一銖金と両替し、六百二拾両を彼書林、河内屋新次郎に取扱はせ、悉皆(みなから)施し尽しけれど、窮民多き時節とて、普く行渡る程にも至らず、残念に思ひ居たりしとぞ、

元来饑饉に及びしハ、去年天保丙申の春より霖雨降続き、彼の三伏の盛度の時だも、麻衣(まえ)を着する日ハ稀にて、諸国一体に冷気なれバ稲生立ず、麦稗等其他の雑穀も茂りやらず、穂に出(いづ)べき頃関東にハ七月十八日の大風雨にて、大木を抜き、人家を倒し、其六月の十五日ハ、奥羽の間、暴風雨関東よりハ猶烈しきも、天の怒り猶ほ息(や)まず、同く八朔の暁頃、再び関東大風雨にて、北の方より吹起り、西南東海道筋に吹及び、又都近き地方にハ、江州よりして東へと、同月十二日大風雨起り、古今未曾有の凶歳にて、民家も潰し、樹木を倒し、其数枚挙に遑(いとま)あらず、是が為諸道の旅行止まりて、人歩行ず、田稲悉く流蕩して、終に饑饉の惨状を現出す、

爰において踊躍して、米一升の価三百文に及び、餓死する者道路に充満し、目も当られぬ有様なり、

執政方より諸役人まで、是れを憂ひて評定せられ、餓者を憐み 米銭を賜ひ、又富有の者ハ金銀を散して、或は己れが地面の者、また隣町にまで施し及ふもなか\/救済の道立ず、抑々(そも\/)今年の饑饉といへるハ、全く去年一歳の凶作に因て来るにあらず、十年已前(まへ)より引続き違作せし上、五ケ年前(天保四癸巳年)八月朔日の大風雨にて、関東殊に不作にて、一升二百五十文の価に至る、斯の如きの凶年ゆゑ、米価ハ更なり、諸式の価一度上りて下る時なく、唯大坂のみ米価一升に付百五十文より二百文を限りとす、

(こ)ハ、先奉行矢部駿河守殿、政令 宜しきに因ものにて、彼大坂にハ来秋までの飯米乏しからねバなりとぞ、

夫に引替、地は隔たらねど、京師ハ、常に大坂より積送るべき米穀と、江州路より牛車或ひハ人の肩を以て運ふ米をバ日用に遣ふ仕来り成し処、今年ハ近江も不作せしゆゑ、京師へ米を少しも送らず、大坂よりして二千石ヅゝ日々運送するの外ハ、余分の米を送らされバ、ます\/饑饉に及びしに、京都奉行より米屋どもへ、其在米を割渡して、凡そ人別に当壱人前米二合を以て限りとす、

爰に江戸ハ大都会ゆゑ、米穀其他の諸式とも運送自由なりけれど、六十余州の人民が輻輳するの土地なれバ、其人員も京坂に増して多きに、饑渇も強く、然れば当時の御勘定奉行矢部駿州殿、大坂の米穀夥多(あまた)を江戸表へ運送したるハ、大坂に米穀乏しからざるを執政方へ言上て、斯取計はれしものなりしと、


「施行」関連参照
石崎東国「大塩平八郎伝」その103


『天満水滸伝』目次/その12/その14

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