Я[大塩の乱 資料館]Я
2003.2.10訂正
2002.4.5

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大塩の乱関係史料集目次


『天 満 水 滸 伝』

その12

石原干城(出版)兎屋誠(発兌) 1885

◇禁転載◇

適宜、読点を入れ、改行しています。


 ○大塩平八郎隠居して大望を企つ (1)

(さて)も大塩平八郎ハ、諸事万端に行渡り、御裁許筋等、聊(いさゝか)かも曲れる事なく、廉直なるハ誰人ともに是を誉、当時の才智と言合り、

時の奉行高井山城守殿、渠(かれ)が行状を感じ玉ひ、重く用ひて無二者(になきもの)と、役所へ制禁の提刀(さげがたな)をも免(ゆる)されける程の事なりしが、時到らずして奉行方も段々替り行に付き、我と慢するの心も出来、また人々の讒言(さかしら)嫉みに事喧(かまび)すく、平八郎ハつら\/世の有様を考へしに、斯てハ迚(とて)も勤め終せじ、功なり名遂て身退くに如(しか)じとこそや思ひけん、

招隠集といふ書を著し、其身は隠居の願ひをぞ奉行の許へ差出しけるに、早速御聞済是ありて、養子格之助へ家督 相続仰付られたりければ則ち其身は致仕しける、

其招隠集の中の詩に

(かく)なん詩を吟し、其身は明の王陽明が心学を教示し、号を中斎といひ、又洗心洞と号(しよう)し、印にハ聖朝吏隠の四字を刻し、常に門弟を集めて軍学を講じ、また武芸を教授なし、人々の尊信浅からす、

常に節倹を旨として、頗る富有の身なりしも、何時の頃よりか、稍(やゝ)自負高慢の心を生じ、今や御世も泰平にて、国家の為にハ慶賀すべきも、世の武家なる者、武事に怠り、御政事の上に参与(たづさは)る諸役人等、賄賂に耽り、上に道なく下に礼なし、且や無学の小人どもに妨げられて罪に陥り悲歎する者少なからず、

我今亡父が遺命あれど、是を捨るも世の為に名を遺すこそ却て孝なり、

又憎みても余りあるハ町家富有の奴原(やつばら)なり、渠等(かれら)武士の困窮なすを直下なすのみならず、皆己等が財有るに誇り、失敬なす事常に多し、然れど此事他ならじ、金銀の為に制するを得ず、是全くは武士道の衰へしより起る者なり、

因て、今我、柔弱の輩、驕奢に長ずる徒の為に、目を驚かす程の事を為さんが、

夫に付ても、大坂城は日本の咽喉なれば、今城中ハ女子輩にひとしき輩が守るぞ、幸ひ是を乗取花\゛/しく天下の勢を引受て、一戦なして死せんにハ、天下へ対して不忠に似たれど、却て武家を励さバ、忠義の一ツともならん、老て病床に死せん事、士たる者の本意にあらず、然れど半途に破れんハ、此上もなき恥辱なり、

と陽(おもて)に隠逸を専らとし、陰(ひそか)に軍術に心を委ね、無事に月日を送りけり、

此企てのある事を、誰人ともに知らざれば、大坂市中の町人等ハ、平八郎が退身せしを、親に離れし心地して、皆々是を惜みあへり、

爰に平八郎が妾にゆふと言る者あり、旧新町の遊女なりとか、未だ其齢三十も越ぬに、剃髪なして召使はるゝ、

仔細を如何にと尋ぬるに、平八郎が勤役中、或町方の者よりして、いと六ケ敷願ひ筋ありしを、取次遣ハせしに、彼者甚(いた)く歓びて、何がな平八郎へ報酬(むくひ)の為贈物せんと思へども、潔白にして一紙も受ず、然りとて甚く世話になりしを、其侭にして打過んも心よからぬ事なれバと、彼者愛妾のゆふの許へ玳瑁(たいまい)の櫛を贈りけるに、ゆふハ、兼々望の品とて最(いと)歓びて是を貰ひ、又なき物と秘蔵して居しを、或日平八郎が風(ふ)と見付てゆふを呼糾すに、ゆふハ、包まん様なく、彼の貰ひし訳を委しく噺せバ、篤と聞て大いに怒り右体の事是有ては我役儀にも拘はる事とてゆふに暇を遣はさんとしけるにゆふは深く歎き其罪を謝し詫けれど、平八郎は決して免さず、併し汝此家に永く使へんとの心ならバ、髪を剃て尼となるべし、然あらバ許して是迄通り差置べし、と言けるにぞ、

ゆふハ泣々其意に従ひ、未三十(みそじ)にも足ずして、緑の黒髪剃落し、尼となりて仕へけるに、此事を人聞伝へ、大いに恐れ感じ入、其潔白を称しあへりと、


「ゆう」関連参照
石崎東国「大塩平八郎伝」その28/その41


『天満水滸伝』目次/その11/その13

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