Я[大塩の乱 資料館]Я
2018.2.21

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「大塩の乱関係論文集」目次


『今古実録大塩平八郎伝記』

その30

栄泉社 1886

◇禁転載◇

 ○守口宿へ捕手向ふ附宮脇志摩が始末の事

管理人註
  

偖も二月二十日となり、火災消滅すると雖も、未だ余煙の吹覆ふて、逆徒は       たむろ          うはさ 未だ守口宿に屯をなすといふ風聞の頻に聞えたりければ、彼地へ京都所司代 より命を伝へて、伏見奉行加納遠江守久儔朝臣、手勢を以て固められ、油断 といふは少しもなきも、此折御城代を始めとし、御番頭衆には御天守台へ登 りて、守口宿の遠近を計られ、当所案内なる水島重兵衛、軍法諸事の心得あ る服部又一郎を呼上られ、此両人を向はせらる、 又町奉行所にては、玉造組与力八田又兵衛及び高橋佐左衛門の両人を城州直 に召寄られ、守口宿へ馳参り、虚実を探り来るべし、尤も加納遠江守の人数 も遣す由なれば、其心得にて罷在べしと申渡され、両人は余の人々の働きを   うらやま いと浦山しく思ひ居しかば、御定番よりの差図はなきも、一手ネせんと、同 心引連、彼地へ急ぎ至りけるに、彼地は少しも手抜なく、口々の改め厳重に                ふたり   ほ い て、賊徒等屯する様子なければ、両人は本意なく思ひしが、吹田村には平八 郎が伯父権八郎といへる者、近来其村の神主となり、宮脇志摩と名乗居る由、 かれ 渠を召捕手ネせんと、其家へ至り取囲み、玄関先より声高く、宮脇志摩に御              まづ 用ありと呼に、小者が立出て先/\御上り下さるべし、といふに怪しみ打通                        まぶ れば、志摩は最早屠腹して、腹を袖にて打覆ひ、血塗れになり這出て、 某し昨日大坂に当り大火有りと見請たれば、平八郎方心元なく、天満辺まで 馳付て、様子承はり候に、思ひも寄ず平八郎儀、逆徒の由に大に驚き、近親      とて                          のちのよ なれば某し迚も遁るゝ道の是なしと、覚悟を極め候へども、此儘果て、後世 まで悪徒の名をば残さん事、いと口惜く存ずれば、御捕方の向はるゝを待て、 此段申述相果なん、  さつき                          まみ と先刻より御出を待居候なりと言つゝ這出、切戸を開き、血に塗れたる指を 指し、                     アレ御覧あれ、庭の松を手づから作りて、未だ出来あがらず、斯程の大事に      いかで 組する者の争安閑と慰みに斯る楽み致すべき、疑ひ晴し給はれ、 といふ声もハヤ皺枯て、今息絶る如くなれば、彼取巻し人数を引せ、村役人 へ厳重に番を言付置けるが、是格別の手柄ならずと、夫より所々を見廻れど、 是ぞといふ事もなく、不肖ながらに立帰り、奉行へ其段達したりとぞ、                               たしか 爰に散乱の後、淡路町に残り有し車台に、宮脇志摩といふ名あり、確実に一                     ことわり 味に相違なきに、右の始末の心元なく思ふも道理、風聞を聞に、彼宮脇志摩、 乱暴後我家へ帰り、無残にも一人の養母を切殺し、其血肉をば掴み出し、袖         にせはら          たばかり に包み腹に塗り、似腹なして両人を誑詐負せ、番人の隙を窺ひ迯出し、長島 辺の明蔵に一夜を明し、見咎られ、其処を迯出し、神崎川榎本辺へ走り来て、 わたしば もより                            いづく 渡船場近傍を眺るに、淀伏見の警衛厳しく、往来の改め厳重にて、今は何国 へも迯延難く、終に庄本村に至り、猪名川堤の淵に於て、咽喉を貫き、半身 を泥中に入て死したりとぞ、彼吹田村の番人が其怠りは、いふも更なり、八 田、高橋の両人は、其不覚をば悔みけるが、志摩自殺せし事なれば、何れも 穏便に事済けるとぞ、         ゆきへ  京橋組与力米津靭負が物語りに、宮脇志摩、嘗て平八郎が方に有て、権八               よく  郎と言し頃、田宮流の剣術を能遣ひ、又大島流の鎗の妙手にて、平八郎へ  も常に教へけるが、志摩、吹田村の神職となりし時、我受し印可を平八郎                いな  に譲らんと言けるに、平八郎、否々、武士を捨る者の免許は受まじ、と言  て断然大島流を捨、佐分利流の鎗術を学びけると、  偖今度の企にも、平八郎、志摩を一臂と頼み、何事にもよらず相談なせし  逆徒の張本ともいふべき者なりとぞ




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