Я[大塩の乱 資料館]Я
2018.2.24

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「大塩の乱関係論文集」目次


『今古実録大塩平八郎伝記』

その33

栄泉社 1886

◇禁転載◇

 ○逆徒追捕の事 (1)

管理人註
  

爰に安田図書と云者は、伊勢山田の浪人にて、二月十九日、淡路町散乱の後、   つか 強く労れて本町辺の下水の中へ鎗を打捨逃行を、町同心渡辺弥五右衛門、是                 てきゝ           ごわ を見付て捕へんとせしに、彼は頗る手利の者ゆゑ、手剛き働きなす処へ、町      あまた                  くゝ 家の者ども数多居合せ、彼渡辺に加勢して、終に生捕縛し上、先玉造会所に                   そ こ 預け、手掛足掛を厳く懸て、一日二日其所に守らせ、町奉行所へ引渡し、其 後六月廿九日、御詮議有に付、江戸へ差下さる、彼生捕の時に手伝し町家の 者どもへ、奉行所より御褒美をば下されしと、                    さまよひ ひねもす あゆみ ○瀬田済之助は、十九日散乱の後、所々を彷徨、終日歩行て、河内国若江の 垣の内に来りし頃は、飢労れて歩行もならず、或百姓家に立入て、気の毒な                     らうば がら一飯を恵み呉よと乞ける時、内に一人の老姥在て、爰には是のみと、飯 櫃に漸々一膳ばかりなる麦飯をば与へ置、猶他へ往て取来り参らせん程に、 しばし   どうぞ           いでゆく 暫の間何卒留守して下されと云捨、出行其跡にて、彼麦飯を喰居たるが、何  あたり か四辺に人音して、物騒がしき有様に、済之助は心ならず、風の音にも心を 冷すは落人の身の習とか、大小掻取、腰にたばさみ、早々此家を迯出し、志 貴山の麓の忍地越に来りし頃は、百姓共ハヤ七八人、鋤鍬を手に手に持て追 懸来れど、今は飢労れて一歩も進まず、捕られんも流石恥辱と思ひやしけん、 片影の松の大木ありけるを、此処ぞと目を付、百姓の追懸来るを遣り過し、            くび 右の大木へ帯解懸、遂に縊れて果しとぞ、             せりあひ ○渡辺良左衛門は、淡路町迫合の時左の足に鉄砲疵を請たれば、散乱の折、 歩行さへ自由ならねど、河内国志貴郡の弓削に続きし田井中村といふ所に、 やつと                   ながらへ       さら 漸の事で至りしが、所詮存命叶ひ難く、其を存命て生恥を肆さんよりは、潔       はね よく自ら首を刎んとせしが、気力尽しか、首を刎得ず、腹十文字に掻切て、 俯伏に成、息絶しと、検使済て大坂へ引れ、御裁許迄は其死骸を塩漬となし、 差置れしとぞ、 ○高橋九郎右衛門、茨田軍治、弟斉治の三人は、散乱の後迯延て、紀州高野             ねんご      かくまひ 山へ登りつゝ坊舎に至り、懇ろに爰に隠匿置れたしと頼みけれど、昔と違ひ   なか/\                         あくるひ 今は勿々容易には人を隠匿ことをなさず、其夜は漸く泊たれど、翌日直に追                  とて         かくなる 出しければ、彼三人は行べき方なく、迚も遁れぬ処と思ひ、斯成上は他に術 なし、同村の者の一味せし百姓共を差口せば、同類たちとも其科の少しは軽          きたな ならんものと、いと穢くも自訴に及び、同村の百姓十人を差口しければ、一 同に搦め取て、拾三人とも大坂表へ送られて、入牢申付られける、右の者等 は、御城代の新領河内の守口なる三番村の郷民なりける、




『天満水滸伝』
その35

幸田成友
『大塩平八郎』
その151


『今古実録大塩平八郎伝記』目次/その32/その34

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