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○天満東組の同心なる庄司儀左衛門は、散乱後、忍びて奈良まで落行しを、
かれ
捕方の者見出しけれど、渠は剣術の達人にて、力量も亦衆に勝れ、容易に手
をば下し得ず、其旅籠屋に着、宿を借るを篤と見済し、宿の亭主と計りて、
おりかさな
夜分酒を呑しめ、其熟睡を窺ひて蒲団の四隅を押へ付、多人数ドヤ/\下重
り、終に搦取けるに、其床の内には白刃を隠して、儀左衛門は歯噛をなし、
卑怯未練にも計りし物かな、常なら此処に死人の山を築んものを、残念なり、
いひのゝしり
と言罵詈、奉行所へ引れ、罪には伏すも、唯平八郎を神と敬ひ、其志ざしを
きか
受継て、天下の事を罵詈て、其制するも聞ざりしと、
○近藤梶五郎は、十九日散乱の後、姿をば非人と換て、市中に忍び、其後三
すま
月九日の夜、柄無き短刀を以て、天満なる彼組屋敷へ夜中に至り、自分の住
ゐ
居し屋敷跡の其焼原にて、物の見事に腹掻切て死したりと、是ぞ逆徒の其内
にも、第一に潔よき自殺なりと、人皆称しあへりとぞ、
○御弓町同心竹上万太郎は、散乱の後、摂津国河辺郡中山寺の門前に有る旅
籠屋にて、大黒屋と云へ泊りたるを、夜中に捕方踏込て召捕けるが、此万太
郎は、彼の大塩に徒党なし、二月十九日家を出る時、上田五兵衛といふ者方
へ書状を一通差出し置ける、其書状に曰く、
それが
上略、某し事勝手甚だ不如意にて、妻子の養育仕り兼候に付、無拠死去にも
及申べくの所、毎々平八郎に扶助を請候に付、同人申事をば、何事も違背致
間敷の旨誓約仕つり候所、此度の企てに一味仕り候、乍恐公儀にて不届にも
思召され、若召捕れ候ても、私儀は如何様共重罪に仰付られ、何卒家名の儀
は、御立下され候様、奉願候、
と手跡は常に子供等に筆道の指南もする者なれば、見苦からず認むれど、其
心根に至つては、愚なる事抱腹に絶たり、今此反逆の罪に於る、従類迄も死
刑になる、夫を何ぞや、愚痴らしき斯る書面の体、取に足ず、笑ふべきの限
つゞきがら
なり、其家内八人は、親類のことなればと、御鉄砲同心田中勘左衛門へ預け
置れたりし処、小給の者とて、久くは預る事も成難くと、支配上田五兵衛方
へ引取れける、
○東組与力大西与五郎は、平八郎が伯父にして、其以前町奉行大久保讃岐守
勤役中、茶臼山一心寺へ御宮造立の事に付、あらぬ事ども願出し申立しが、
越度にて讃岐守には御役御免差扣仰付られつ、一心寺住持は、御仕置と成し
もろとも
に付て、与五郎も同組与力侶倶に関東へ下り、申開済、帰阪して後、何とな
も と ば か
く心配なせしが原因となり、心気虚脱して健忘の如く、世にいふ痴漢と同じ
ゆかり くはへ
事ゆゑ、由緒あれども、平八郎は、此与五郎を一味に加ず、城州には、平八
郎に説て切腹なさしめよ、若聞入ずんば差違へよと、既に十八日の夜、与五
郎へ申附られ遣さるゝに、憶病なれば、平八郎方へも行ず、途中に考へ、渠
とは伯父甥の事なれば、後日の咎めもや如何やと、恐をなして、悴なる善之
進を同道なし、直に出奔して、西の宮近き灘と云所へ、忍行けるを見咎られ、
是も召捕と相成ぬ、彼一味にあらざるも、奉行の命を請ながら、御用先にて
逃出したる、其申訳なくして取込られ、古今未曾有の不覚者と、其頃人々沙
汰しける、
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『天満水滸伝』
その36
幸田成友
『大塩平八郎』
その152
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