さて かへ つ れ だれかれ
偖も林家にては、彼大塩平八郎が皈らざるに心を痛め、其日の同伴なる甲乙
方へ問合するに、何れも倶に帰りし由に答へけれど、平八郎は今に帰らず、
何様不思議千万、打捨置んも如何なりと、此段大学頭殿の御聞に達しけるに、
殿には是を聞給ひ、彼平八に於ては気遣ひなし、今に帰来るべし、其儘にし
かしこ
て相待べしと、更に尋ねもし給はず捨置給ふに、御家来ども、主人の仰と畏
みて其儘になし置けるが、果して平八郎帰り来しに、其段申上しかば、殿に
は御機嫌麗しく、早速我目通りへ出すべしと仰せに、ハツと心得て、則ち召
いづかた
連罷り出しに、殿には平八と対面ありて、其方両日の其間、何方へ参り居り
しや、包まず話せ、と尋ね給ふに、平八郎は、慎んで、
ふ
私儀、風と心得違ひに吉原町へ罷り越、彼遊女屋に止宿いたし、多分の金子
を遣ひし処、其揚代金に差支へ、必至難渋如何とも致すべき様あらざれば、
余儀なく茶屋の若い者一人、同道仕り罷り帰り申候、何卒右の代金を御立替
下さるれば、千万難有き仕合、
ことがら つまびら
と其事由を臆する色なく事詳かに答へたり、
近習に詰合人々が此事を聞、平八郎が答へ如何と、手に汗握り恐れ入てぞい
たのし
たりける、殿には、又も平八に向ひ、其方、遊女屋に罷り有て、如何なる娯
こなた やが
みをなせしや、と問れて、這方は、ハツと平伏、頓て懐中より鼻紙に綴りし
のた
物を取出し、是を御前へ差出すを、大学頭殿手に採玉ひ、一覧ありて宣ふや
ほか つ れ
う、其方、外に同伴でも有しや、如何に/\、と有ければ、平八郎は恐れ入
て、
一向同伴と申はござなく、全く国への土産と存じ、風と隅田堤の桜を見思は
ず、遊所へ入込て、斯の次第に相成し事、何とも申上べき様なく、面目次第
是なし、
と御答へにぞ及びけり、
うなづき かれ につこ うちえみ
大学頭殿点頭玉ひ、渠が出せし懐紙をば、篤と見玉ひ、莞爾と打笑、汝が性
よく
質、堅固にて、色に心を奪はれざるは、其仔細を言ずして、我宜是を知るも
もの のたま
のなり、是は独詩百韻を記せし書、と宣ひて、平八郎に返し玉ひ、偖申出の
揚代金を残らず払ひ遣はすべし、とて金子を出し与へ玉へば、平八郎は、有
難し、と右の金子を押戴き、御前を下りて召連来し彼若い者へ払ひ遣はし、
ねぎら
渠を労ひ帰せしとぞ、
にち/\ や ゝ
依てこの事は故なく済み、夫より後は学問のみ日々夜々に励みける、
たれかれ こ と
然れば此始末を同道せし甲乙が聞伝へて、偖しも平八が、先日の一件其身に
引受、傍輩の悪事を決して言立す、大学頭殿御前にて更に臆する気色なく、
さま
少しも包まず明白に答へし様と、遊所にて聊か心を動さず、詩を作りて楽み
居し其有様とに感じ入、中/\渠が行状は、凡人の為し難き処、我々などが
さそひ ともだちら
及ばぬ処、と其日誘引し朋友等、慚愧後悔、平八郎に対ひて罪を謝しにけれ
よき
ど、平八郎は、怒れる色なく、更に其事に取合ず、能程に挨拶して、何も言
ずに居たりしとぞ、
あけくれ ひたすら
是より其身は殊更に書籍に眼をさらしつゝ旦暮、余事には目も触ず、只管励
み学びしかば、学業の上達著るしく、平八郎が上に立弟子とて、他に一人も
なく、皆々是を尊びけり、
彼吉原にての事の始末を、大学頭殿には感じ給ひ、其日の友を言ずして一人
ほめ
に事を引請し、其心底の信あり義あるを、後々迄も諸弟子中へ物語られて賞
玉ひしとぞ、
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