Я[大塩の乱 資料館]Я
2002.10.2

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大塩の乱関係史料集目次


『天 満 水 滸 伝』
その38

石原干城(出版)兎屋誠(発兌) 1885

◇禁転載◇

適宜、読点を入れ、改行しています。


○大井正一郎の伝 *1

○大井正一郎ハ、玉造口与力大井伝次兵衛の悴にして、幼少の頃より剛気濶達にて、常に友達の子供を打擲して、親の憤(いか)りを度々受しも、其人長(ひとゝなる)に従ひて、気随放逸増長し、大酒を深く好んで呑、其過る時ハ口論し、動(やゝ)もすれば白刃を閃かしてハ、人を威し取ところ無き者なれバ、親伝次兵衛ハ心痛して、或日正一郎を呼近づけ、異見を加へ、禁酒せよといへども、五日と辛抱ならず、箸にも棒にも掛らず居しうち、去申年の事成しが、如月某日初午に、小橋と云地に、心安き浄土宗の僧有しが、此寺へ行き、上り込、朝より酒を始めしに、次第に酩酊するに従(つれ)、酒が言(いは)する跡引、上戸いざや是より生州へ往、所を替てわツさりと呑直さんと、昼九ツ頃、厭がる住持を無理に引連、先天満の方へ赴きしが、谷町辺に来りし時、往来の者へ突当り、例の酒癖に剛気を発し、武士に突当りて不届也、其分にハなし難し、真二ツになし呉ん、とすらりと刀抜放すに、同道せし彼僧ハ、大に驚き抱き止め、此は狂気せしか、短慮なり、と言ふをも聴ず振放さんと揉合内に、相手の者ハ其場を這々に迯去たるに、僧は一生懸命に正一郎を抱留居しが、身をもがく機会(はずみ)打倒るゝを、正一郎ハ、酔眼に僧を相手と思ひ違へ、彼抜放せし刀の胸にて、したゝか天窓(あたま)を打裂しが、此事最(いと)も六ツ敷なり、

(つひ)に親類中掛り合、事内分に取扱ひ、公辺沙汰にハ成ざりしが、親伝次 兵衛も親類へ対し、此儘には差置難しと、先表向は勘当分にて、彼平八郎が義気を知る故、正一郎を是へ頼み、諭しを受などしたならバ、放逸大酒も止べしと、平八郎へ伝次兵衛より只管(ひたすら)頼み入けれバ、平八郎も承知して、夫より内弟子とハ為し置しが、今度一味の第一となり、玉造にて育し故、火術に勝れし者なれバ、逆徒の一臂とハ成にける、

故に父伝次兵衛も押込られ、其家名にも拘るべき程の大事に至りしハ、仏頼んで地獄に堕(おつ)と、世の諺にいふ如くなり、

夫は扨置、正一郎ハ、彼十九日の押出にも、難波橋より二手に別れ、先一方の首頭となり、米平が輩を焼立けるが、散乱の後、遠く逃延、日頃足ハ達者なれバ、阿州(河内)の国見山程近き尊延寺村の百姓にて、次三郎 *1 と云方に一泊し、百姓三八と云を供になし、大和路指て来掛りしが、行先ごとに詮議厳敷、今ハ立伏木蔭も無れバ、此辺に浮\/居たらんにハ召捕るゝ事もや有んと、夫より道を北へとり、加賀国迄逃行しが、火急のことゆゑ路用も薄く、既に貯へも尽果しかバ、今ハ如何ともすること能ハず、依て又々思案を替、胆太くも加賀を立去、忍びて山城の国へ立入り、身寄を尋ねて内々に金子を調へんと入込居しが、遁れぬ天網疎にして漏ず、終に所司代の手に召取れ、京都に於て御吟味有、夫より四月二日大坂へ送られ、御詮議有て、六月廿九日彼安田図書と侶倶(もろとも)に、道中厳敷警護して、江戸表へと差下され、江戸表にて御吟味有しと、


管理人註
*1 本文には見出しなし。
*2 深尾次兵衛。


坂本鉉之助「咬菜秘記」その50


『天満水滸伝』目次/その37/その39

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