Я[大塩の乱 資料館]Я
2008.12.20

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大塩の乱関係論文集目次


「大塩中斎」

その10

高瀬武次郎 (1868−1950)

『日本之陽明学』榊原文盛堂 改訂 1907 所収


◇禁転載◇


 交遊(7)管理人註

湖上の難 死に瀕す 致良知存 誠敬の工 夫 晴朗湖上 の佳歌 我れを金 玉にす 京師を眺 む

  藤樹之墓 中斎の此行、頗る致良知、存誠敬の実功を得たり。固 より尋常の遊記にあらず。吾人其文を愛するにあらずして、 其心術涵養に裨益多きを喜ぶ。而して中斎最も精密に其実 況を叙したれば、聊か之を抄訳して其梗概を示さん。 天保三壬辰の夏六月、予閑逸無事を以て浪華を発し、伏水 に至り、江州に之き、湖に泛ひ、以て中江藤樹先生之遺跡 を小川村に訪ひき。小川村は西江比良嶽の北に在り。先生 は我邦王学の開祖なり。其墓に謁し、其容儀道徳を想像す れは、涙墜ちて臆を沾す。其書院は存すと雖も、今先生の 学を講する者なし。其門人の苗裔、医を業とする者、乃ち 之を監守すること、恰もを守り、神に事ふるが如く然り。 予是に於てか、詩を賦す。其詩に曰く、    ノ          ルノ  院 畔 古 藤 花 尽 時   ヒ  ニ  ス       ノ  泛湖 来 拜 昔 賢 碑      リ タル    ノ  餘 風 有似 比 良 雪      シ   ス  ヲ  流 滅 無人 致此 知 と、帰る時、大溝港口に於て復た舟を買ふ。予及び従ふ所 の門生、家僮と共に四人のみ。再び湖に泛び、南の方坂本 に向ふ。大溝より坂本に至るの水程凡そ八里許。纜を解き 緒を結ぶ、時既に未申の際、日晴れ浪静かに、柔風の只颯々 たるのみ。小松近傍より北風暴かに起りて、湖を囲み、四 山各声を飛ばす。狂瀾逆浪、或は百千怒馬陣を衝くが如く、 或は数仭の雪山前に崩るるが如し。他の舟船、皆な既に逃 れて一も有るなし。其の帆を張る至て低く、只三尺強。而 も其怒馬に乗じ、其雪山を踏み、以て直前勇徃、箭の馳る が如き者、只是れ吾が一舟のみ。忽ち鰐津に到る。嘗て聞 く、鰐津は平日風なき時と雖も、回淵藍の如く染み、盤渦 谷の如く転し、巨口大鱗の遊泳出没する所と、乃ち湖中の 至険なり。而るを況んや。風波震激の時をや。蓬を推して 水面を見れば、則ち所謂地裂け、天開くの勢を為す。奇な るかな、颶風忽ち南北両面より吹て相ひ軋る。故に帆腹表 裏饑飽定まらず。是を以て舟進て、而して又退き、退て而 して又進む。右傾けば、則ち左昂り、左傾けば、則ち右昂 る、踊るが如く舞ふが如く、飛沫峻く濺き、蓬に入りて牀 を侵す、実に至危の秋なりき。舟子呼て曰く、他舟皆な幾 を知る、故に之を避く、某の如きは、独り誤て前知する能 はず、乃ち此に至りぬ。吁、命なるかな。然も客に対する の面目なしと。吾其言意を察するに、共に魚腹に葬らるゝ の患を免れざるに似たり。因て却て舟子を慰喩して曰く、 爾の誤て此に至るも命なり、吾輩此に至るも亦命なり、倶 に之を如何ともするなし。只天に任せんのみ、何ぞ患るに 足らんやと。門生家僮既に悪酒に酔へるが如く、頭痛み眼 眩み、其心覆溺を慮る者の如し。予と雖も、実に死すべし と謂へり。故に憂悔危懽の念を起さざるを得ず。是時忽ち             シ  ノ ス ノ ヲ 藤樹書院に於て作る所の無人致此知の句を憶ひ、心口相 語りて曰く、此則ち其の良知を致さざるの人を責むるなり。 而して我若し憂悔危懼の念を起して、自ら責むることなけ れば、則ち躬を待つこと薄くして、人を責むること却て厚 し、是れ怨に非るなり。平生学ぶ所果して何くに在ると。 直ちに良知を呼び起せば、則ち伊川先生の誠敬を存するの 言も亦一時に起り来れり。因て其飃動中に堅坐すれば、乃 ち伊川陽明二先生に対するが如く、主一無適、我の我たる を忘る、何如に況んや、狂瀾逆浪をや。憂悔危懼の念、氷 雪を熱湯に投ずるが如く、立どころに消滅して痕なし。此 より凝然動かず、而して飃風も亦自ら止み、柔風依然舟を 送り、終に坂本の西岸に着きぬ。此豈に天に非るか。時に 夜既に二更なりき。門生家僮皆な回生の思を為して、互に 恙なきを賀し、遂に坂本に宿す。明日暁天晴朗、乃ち比叡 山に登り、四明の最高を尽くす。俯して東北を視れば、則    ビョウマン キノフ ち蓮湖森漫、疇昔経歴せる所の至険皆な一眸の下に在り。 風無く、浪静かに、水光天を浸たす、実に一大円鏡なり。 漁舟点々黶子の如く、帆檣数千、東に去り、西に来る。平 地よりも易く、危懼すべき者なきに似たり。是に於て、門 生余に謂て曰く、昨日の憂悔危懼は、抑も夢か、亦た天吾 師を譴めしかと。余曰く否な、夢に非ず、真境なり、天譴 に非ず、我を金玉にするなり。何となれば、其変に逢ふに あらずんば、即ち焉んぞ真の良知と、真の誠敬を窺ふを得 んや。又焉んぞ真に伊川陽明両先生に対するを得んや。故 に曰く、真境にして夢に非るなり、我れを金玉にするもの にして、天譴に非るなりと、然らば則ち福にして、禍に非 るなり。諸子亦徒らに憂悔危懼を追思するなくして可なり。                         且つ諸子何そ復た夫の城邑を視ざるや、其れ近く杖履の底         テツ に在りて、峰窩蟻垤の如き者は、富貴貧賤の同しく棲む所 なり。故に余は、却て夫子が東山に上りて、魯を小なりと            ユタ せし興を得て、心広く体胖かなり。眼豁かに、脚軽し、諸 子も亦宜しく共に是の興味を同じくすべしと。是に於て又 詩を賦しき。詩に曰く、        リ  キ    ニ   四 明 不独 尽湖 東     メバ   ヲ       シ   西 眺洛 城眼 界 空                人 家 十 万 塵 喧 絶     クノミ  ノ  フヲ   ニ   只 聴一 禽 歌冷 風     シャ                サ シ 胸中益々灑灑然として、一点の渣滓なきを覚えき。因て謂 へらく、吾輩纔かに其境に即きて良知を呼び起し、誠敬を 存するも、猶ほ且つ至険を忘れ了りぬ。今や嶽に登りて万 死の処を顧みると雖も、毫も心寒股慄の態なく、湛湛悠悠、     ハ   モ クス ヲ 却つて心聖人同焉の興を得たり。而るを況や、伊川先生の 如く、昼夜を通し、語黙を徹して誠敬を存すれば、即ち其 の堯舜の事と雖も、只是れ太虚中に一点浮雲、日を過ぐる が如しと謂へるは、実見にして虚論に非ること、断じて知 るべしと。滴々先生州の水厄を記せるに因みて、遂に又 余が湖上の事に及びぬ。此れ比して以て夸言するに非ず、 只人をして良知を致せば、即ち是れ誠敬と為り、誠敬を存 すれば、則ち良知昭昭然として、日月の如く、初より二致 なきを知らしめんと欲するなりと。


石崎東国『大塩平八郎伝』その53


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