天保四癸巳の歳四月、洗心洞剳記の刻成り、中斎は之を四
方の名家、特に姚江の学を学を喜ぶ者に寄贈して、之が評
論を求めたり。其顕著なる者を挙ぐれば、岡藩臣角田簡、
津藩侍読斎藤謙、柳川藩儒官牧園猪、御室宮家士杉本祐憲、
島原藩儒臣川北重憙、筑前の大友参、安芸の吉村晋、幕府
騎吏浅井中倫、彦藩太夫宇津木泰交、林氏の塾長佐藤坦等
なりき。一斎佐藤坦は、当時碩学鴻儒を以て一世に重きを
為せる者、聖堂の祭酒、儒林の泰斗、学徳年歯並に高く、
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已に久しヒく世の耳目を惹く、陽に朱子を講じて、陰に王
子を景仰する者なり。一斎は、洗心洞剳記を閲し、七月朔
を以て答謝の書を致しき。其文に曰く、
陋簡拝啓、未接紫眉候処、秋暑時節御佳裕被成御興居奉
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抃賀候。抑先頃者、間生へ御転托にて高著洗心洞剳記二
冊被恵、副以真文手教辱致拝受候。真文拝復可致之処、
人事紛忙、且老境精力薄相成候間、俗通書不取敢御報申
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述候。御恕察被下度候。先以兼て御芳名伝承罷在、以津
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楚者拝顔致し度存居候処、此度不図御手牘に預り、御履
歴且御志操之概、詳悉被仰示披雲同様に存し、欣聳不少
奉存候。先達而間生出府之砌も、御剳記中抄出之冊子間
生より被示、今又新刻全部御恵被下反覆致拝覧候所、数
條御実得之事共、使人感発興起不勝欣躍、拙老など可及
所に非すと奉存候。就中大虚之説、御自得致敬服候。拙
も兼々霊光之体即太虚と心得候処、自己にて太虚と覚え、
其実、意必固我之私を免れず、認賊為子之様に相成難
認事と存候。貴君精々此所御着力被成候得は、即御得力
爰に可有之と存候。尚も実際に御工夫被着かしと祈入候
事に御座候。扨又拙も姚学を好み候様被仰越候処、何も
実得之事無之赧羞に堪ず候。姚江之書元より読候得共、
只自己之箴に致し候のみにて、都而之教授は、並の宋
説計に候。殊に林氏家学も有之候得は、其碍にも相成、
人之疑惑を生し候事故余り別説も唱不申候事に候。且又
江都にては群侯百辟之間に周旋致し候事に候得ば、何学
などゝ申事詮も無之。只自己に而乍不及、迪哲之実功を
骨折、夫よりして君心之非を格し、遂に治務之間にも預
り候得は漸々人之家国に寸補可有之哉に存候。兎角人は、
実を責ずして、名を責るものかと被存候。名にて教之害
を成す事少からず候得は、務て主張之念をりて、公平
之心を求め度候。左候得ば却て教化之広く及申候事有之
哉と被存候。返す々々も其実無之而者、何学に而も埒明
不申、たゝ自己之実を積候外無之とのみ心掛候得共、扨々
十か一も存意通に参らず浩嘆に堪す候。愚意之概聊申試
候。尚御垂教被下候。将亦御剳記中前人未発之條不一而
足候得共、堯舜之上善無尽殊に御年齢強壮之御事、此後
幾層御長進可有之歟不可測と御頼敷存候事故、申迄も無
之愈益御深造之処翹望に堪す候、御著篇□□へ示し可申
之旨致承知候。未た案上に指置き申候。何れ見せ可申候。
左様御承知被下度候。且又真文拝答不致候に付、雑文三
篇塾生認置候儘、呈覧乞正申候。不満貴意候所は、御指
摘を厭不申候。尚追而御文通可申候。先拝復鳴謝迄如
是御座候。時下玉燭不調、為道御自保可被成候。恐惶頓
首。
七月朔書封
佐藤捨蔵
大塩平八郎様 坦(書印)
惟ふに、当時に在りては、一斎の言動は、世人の倶に瞻仰
する所なれば、此一書は直ちに中斎及其著剳記の価値を評
定したらん。書中或は揚、或は抑、又は奨励、又は訓誡、
推服するに似て、而も自に地歩を占め、特得の見を称して、
而も一家言の主張を斥く、諄々説き去り説き来りて。人を
して自ら其説に服せしむるものあり。宛も老将の兵を用ふ
るが如し。老手腕、実に驚くに耐へたり。
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