明年四月、洗心洞剳記刻成る。此時山陽の子余一、江戸よ
り芸に帰省するの途次、中斎を訪ひ、謀るに先考山陽の碑
面謚号の字の大小を以てす。中斎因りて剳記一部を与へ、
且つ曰ひき、
ヘラク ホ ルカ ニ レトモ ニシテ ラハ
吾心以為猶贈山陽也。然山陽而有霊。
マシ ル サ ヲ ヲ
必含不尽両巻之憾於地下也歟。
シメ リテ ニ テ レハ ヲ
而今由其贈序之文以観之。
チ ル ヲ シ ニ ク ル ヲ ハ
則知我者。莫山陽若也。知我者。
チ ル ノ レハ ノ
即知我心学者也。雖知我心学。
チ ズト サ ヲ シ スカ ヲ
則未尽剳記之両巻。而猶如尽之也。
吾を知る者に山陽若くなしと、固より当に然るべし。而し
て山陽を知る者、亦中斎に若くなきなり。知己や獲難し、
山陽去て復た山陽なし。山陽嘗て私かに中斎の大急過鋭を
憂へしが、果然中斎は、之が為めに軽挙、事を誤りぬ。天
若し山陽に仮すに、尚ほ六年を以てせば、能く中斎を輔け
て、救民の良策を講ぜしめしならん、嗟。
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