Я[大塩の乱 資料館]Я
2008.12.12/2009.4.13修正

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大塩の乱関係論文集目次


「大塩中斎」

その2

高瀬武次郎 (1868−1950)

『日本之陽明学』榊原文盛堂 改訂 1907 所収


◇禁転載◇


 修学管理人註

当時の学 風 古本大学 より入る

   修 学 中斎二十歳にして、大阪東組与力と為るを以て見れば、多 年蛍窓雪案の功を積まざりしは、亦以て知るべし。素読訓 詁は、固より塾師に就きたるべきも、何人の門下に学習せ しやは知るを得ず。当時の学風は、朱子派にあらざれば、 則ち考証派、考証派にあらざれば、則ち折衷派なり。江戸 には朱子学の中心点として林信徴、尾藤良任、柴野邦彦、 佐藤坦の大家あり。京師には皆川愿あり。大阪には竹山中 井積善、履軒積徳兄弟あり、懐徳書院を建て、隠然関西文 学の牛耳を執る。或は曰く、中斎夙とに江戸に遊び、林家 に就学すること五歳と、未だ拠る所を知らず。然れども、 中斎も初めは当時の風習の如く訓詁詩文を事とす。門人松 浦誠之の洗心洞剳記跋に曰く、夫れ先生嘗て学に志すの時、 海内儒風乃ち萎靡、訓詁にあらずんは、則ち文詩、躬に孝 悌忠信を行ひ、以て後進を導く者は、未だ之れ有らざるな り。故に先生亦た其臼に陥ること久し。一旦古本大学を 読んで、其の誠意到知の旨を黙識神了すと。句読の師、固 より其人に乏しからず、何ぞ必しも名師を要せん。而して 其の王陽明に私淑せしは、独学たること固より疑なし。中 斎の境遇と気質は、最も陽明学を取るに適す。彼は弱冠に して已に刀筆の吏と為り、簿書堆積の中に在り、勢自ら知 行合一を促すものあり。加之、姿性峭直果毅、最も簡易直 截の学に適す。彼れ嘗て朱子学の繁旺に堪へずして悶癢す るの時、一朝古本大学を読み、豁然霊機に触れ、遂に旧学                     ムナシ を棄てゝ全く之に帰す。異域の外、三百歳を曠ふして奮然 とし興起す、是れ豈に偶然ならんや。王陽明も亦所謂百世 の師なるかな。

林大学頭 柴野栗山 佐藤一斎 皆川淇園

 
  


井上哲次郎「大塩中斎」 その2


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