修 学
中斎二十歳にして、大阪東組与力と為るを以て見れば、多
年蛍窓雪案の功を積まざりしは、亦以て知るべし。素読訓
詁は、固より塾師に就きたるべきも、何人の門下に学習せ
しやは知るを得ず。当時の学風は、朱子派にあらざれば、
則ち考証派、考証派にあらざれば、則ち折衷派なり。江戸
には朱子学の中心点として林信徴、尾藤良任、柴野邦彦、
佐藤坦の大家あり。京師には皆川愿あり。大阪には竹山中
井積善、履軒積徳兄弟あり、懐徳書院を建て、隠然関西文
学の牛耳を執る。或は曰く、中斎夙とに江戸に遊び、林家
に就学すること五歳と、未だ拠る所を知らず。然れども、
中斎も初めは当時の風習の如く訓詁詩文を事とす。門人松
浦誠之の洗心洞剳記跋に曰く、夫れ先生嘗て学に志すの時、
海内儒風乃ち萎靡、訓詁にあらずんは、則ち文詩、躬に孝
悌忠信を行ひ、以て後進を導く者は、未だ之れ有らざるな
り。故に先生亦た其臼に陥ること久し。一旦古本大学を
読んで、其の誠意到知の旨を黙識神了すと。句読の師、固
より其人に乏しからず、何ぞ必しも名師を要せん。而して
其の王陽明に私淑せしは、独学たること固より疑なし。中
斎の境遇と気質は、最も陽明学を取るに適す。彼は弱冠に
して已に刀筆の吏と為り、簿書堆積の中に在り、勢自ら知
行合一を促すものあり。加之、姿性峭直果毅、最も簡易直
截の学に適す。彼れ嘗て朱子学の繁旺に堪へずして悶癢す
るの時、一朝古本大学を読み、豁然霊機に触れ、遂に旧学
ムナシ
を棄てゝ全く之に帰す。異域の外、三百歳を曠ふして奮然
とし興起す、是れ豈に偶然ならんや。王陽明も亦所謂百世
の師なるかな。
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