Я[大塩の乱 資料館]Я
2008.12.13/2009.4.25修正

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大塩の乱関係論文集目次


「大塩中斎」

その3

高瀬武次郎 (1868−1950)

『日本之陽明学』榊原文盛堂 改訂 1907 所収


◇禁転載◇


 仕路管理人註

吟味役 妖教を除 く 官紀を振 粛す 僧侶の非 行を発す 墳墓の地 を訪ふ

    仕 路 中斎の仕路に在るや、早とに剛直廉潔を以て称せらる。文 政四年高井山城守実徳は、大阪東町奉行と為る。中斎は、 早く其知遇を受く。高井山城守将に驥足を展べしめんとし、 擢でて吟味役と為す。是れ一小官たるに過ぎざれども、刑 律を案じ、罪囚を懲らし、奸邪を摘発するの職なれば、直 ちに人民に接するが故に、其人を得ると否やは、大に一般 の治績に関係す。又其職に在る者も、一挙して其手腕を顕 はすを得べし。中斎自ら持するや謹厳、其言を処するや公 平、学識僚属に超え、志気方さに豪壮なり。当時既に幕末 に及び、百事悪弊を以て充さる、特に公事訴訟は、賄賂苞 苴に依て左右せられたる時なり。中斎は威武も屈せず、権 勢も避けず、自ら信ずる所を行ふて、秋毫も仮借せず、深                く賄賂の弊を矯む。快刀乱麻を截ち、利鋒盤根を断つが如 く、姦猾の同僚為めに肝胆をして寒からしむ。此時に当り て益田貢は妖教を主唱して愚民を迷はし、利を貪る。妖巫   ミツキ 益田貢は、肥前国唐津の浪人、水野軍記の弟子なり。天帝 の画像を拝し、神文を唱へ、指を裂き血を出し之を画像に 瀝き、陀羅尼加持祈祷より、金銀を集むる法、妖術の印文 に至るまで、種々の秘法を受け、今や京都八阪の陰陽師と 称す。所謂切支丹宗徒なり。中斎一挙して此大害を除く。 妖巫益田貢は、大阪二郷引廻しの上、磔に処せられ、門弟、 信徒皆な刑に処せらる。此一挙や、実に、王陽明、宸濠を 擒するの概なくんはあらす。是に由て平八の名、京畿に轟 き、市人共に先生を以て称するに至る。実に文政十年四月 なりき。                ユ ゲ タ 文政十二年三月大防西組の与力弓削田新左衛門の姦曲を指 摘して、之に割腹を遂げしめ、大に官吏の風紀を振粛せり。 翌年、又僧侶の非行を鉤発して之を刑に処す、当時僧徒非        コウ 法乱行、愚民を蠱惑して私を挟み、利を営む者比々是なり。 中斎命を受けて悪僧を召し、一方には仏門の戒律を説き、 一方には国家の法度を示し、深く其罪悪を責め、其罪科に 応し、重きは之を遠島に流し、其余、軽重に随て之を処断 せり。宗教の腐敗之がために一洗し、僧徒の堕落も之かた めに改新せり。 天保元年七月、知遇の上官、高井山城守は、老を告け、大 阪東町奉行の職を辞せり。中斎時に年三十有七。跡部良弼 代りて奉行と為り、猜忌にして心に中斎の剛直を害とす。 中斎も亦七月遂に致仕す。招隠之詩に曰く、           メテ カナリ   昨 夜 間 夢 始 静。          タリ    ニ   今 朝 心 地 似 僊 家。                カ ラン ルヲ カラ   誰 知 未 乏 素 交 者。                         秋 菊 東 籬 潔 白 花。 此より全く仕路に念を絶ち、養子格之助をして其職を嗣が しむ。乃ち閑を得て一たび尾張に遊び、祖先墳塋の地を訪 ふ。中斎は、嘗て天文年間に駿、遠、参に威を震ひし今川 義元の末葉なり、蓋し義元曾て桶峡間の戦に命を殞しゝよ り、其後子孫尾張に住したればなり。帰阪の後は一意洗心 洞の学風を宣揚するを以て任と為せり。

田貢 が正しい 大西組 弓削 新左衛門 が正しい 高井の 後任は 曽根日向 守

 
  


井上哲次郎「大塩中斎」その4


「大塩中斎」目次/その2/その4

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