天保三壬辰の歳四月、山陽洗心洞に過ぎり、置酒高談、互
に肝を披く。主客の知遇一朝にあらずと雖も、其学を問
へば、自ら相容れざるものあり。中斎は太虚、知行合一、
致良知を以て標的と為し、山陽は、則ち歴史、文章、詩歌
を以て自ら任ず。此に由て之を観れば、其相ひ知るや必ず
他に因由の存するものあらん。然れども、山陽毎に中斎の
説を聴て善しと云ふ、其見識に於て相合ふ所ありしか。中
斎嘗て古本大学刮目を著はす。此日山陽其稿本を読で、深
く之を賛し、自ら之が序文を作らんことを約す。又中斎未
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刻の洗心洞剳記若干條を出して之に示す、山陽読み来りて
深く聖学の奥を得るに服す。未だ其半に至らずして日已に
暮る。茲に於て其上梓を待て、評論せんことを告げて袖を
分つ。翌五月山陽血を咯き病革まる。中斎之を聞き、直ち
に洛に上り、其家に到る。到るの日、山陽遂に易簀す。中
斎哀悼痛哭して家に帰る。
嗚呼、山陽、中斎を知り、中斎山陽を知る、而して共に是
れ一代の俊髦。儒林の狂逸を以て目せらるゝ者、交情日に
密に、送迎愈々繁からんとする時、一朝溘焉として永く相
訣る。剳記の評論、刮目の序文、空しく一片の諾を留めて
追慕の情を増すのみ。
山陽と中斎は、氷炭の如くなるべくして、而も管鮑の情あ
り。世人之を怪むは、固より其所なり。中斎も亦嘗て自ら
謂ひき、
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夫山陽之善属詩文洞通史事。詩客文人之所知。
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而我 則嘗為吏参与訟獄。
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且講陽明子致良知之学者也。
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以世情視之。則如不与山陽相容然。
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然往来不断。送迎不絶。何也。
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余善山陽者。不在其学。
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而竊 取其有胆面識矣。
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山陽有何所観以善我乎。吾初不識也。
蓋し二人が相得るは、気慨と胆識に在りしが。威武も屈せ
ず、権貴も媚びず、勇往直進、唯其の所信に任し、浩浩焉
として心を百世の表に涵するは、則ち倶に共に之を同ふす
る所。唯其れ相契ふ所此に在りて存す、是れ世人が其交を
怪み、自己も亦之を怪みし所以なり。
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