Я[大塩の乱 資料館]Я
2014.4.29

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「大塩の乱関係論文集」目次


『大塩平八郎』

その12

丹 潔

(××叢書 第1編)文潮社 1922

◇禁転載◇

第二章 与力時代
 第四節 邪蘇教徒事件 (1)

管理人註
   

 次に文政十年四月に起つて、三年の後に漸く、落着した邪蘇教徒逮捕の 一件を述べる。文政八九年の頃、堂島辺へ京都から、宮方の隠居と称する ものが見えた。加持祈祷に巧で、吉凶禍福を予言して百発百中であつた。 信仰すれば、永遠に栄えるといふ触込みで、自らその所謂、宮方の御隠居 となつて気取つてゐたが、これが抑も一事件の発端を開く由因となつた。 それに対する世評が喧しくなつたので、奉行所は内面的に活動を開始した。 其の当時の掛与力が、即ち大塩平八郎と瀬田藤四耶の両人であつた。探つ て見ると、立派な詐欺師であつた。  宮方の隠居と称する者は、西成郡川崎村憲法屋与兵衛の借屋に住んで、 京屋新助の母さのであつた。彼女が主謀者で、これが稲荷明神の信仰に心 酔してゐたが、とう/\加持祈祷によつて、病気その他、難渋の者を救ふ と云ふ大看板を掲げた。修法者は、金、銀、又は衣類を納付せよ、すれば、 家業が繁栄すると云ふ触れ込みであつた。時には稲荷様から賜はる利銀な どと、好い加減なことを云つて、少しばかりの割戻しをする方法をとつた。  その手先となつて金銭を掠奪した者は、忰新助、川崎村の憲法屋与七の 妻八重、堂島新地裏町の伊勢屋勘蔵、及びその妻とき等であつた。  文政十年正月に一同を召捕つた上、入牢せしめた。  家主与兵衛を初めとして、被害者は合計十九名であつた。衣類金品の一 切を詐取した高を銀に換算すると、七拾弐貫目余であつた。即ち約千二百 両、現今の金にしたら、六万四千円であつた。  慧眼の平八郎は、これは決して、尋常一様の巫女者流ではなく、確かに 特殊の信仰に鍛冶された何物かがあることを看破した。さうして更に鋭敏 なる活動を開始した。被害者の中でも最も横暴なる家主与兵衛は、人から 貰ふことなら何んでも貰ふが、出すことならびた―文でも出さぬと云ふ奴 であつた。それが彼女の一言で惜気もなく金銀を出すのは、何処かに秀れ てゐる技巧があつた。彼の妻や母が、彼に強く意見をしたが、それは水の 泡であつた。調索隊はさのが以前住んでゐた堂島新地裏町播磨屋卯兵衛の 方へ手を廻した。卯兵衛の妻そよの話によると、さのの忰なる新助が、天 満龍田町播磨屋藤蔵の同居きぬ方へ毎日通ふのであつた。直にきぬを引致 して調べると、悪事が露顕されぬように種々と云ひ抜けをしたが、その効 果は上らなかつた。書簡を初めとして、種々の証拠品が上つた。家にはさ のと同じやうに、稲荷明神を祭つてあつた。それは紙製の人形であつた。 天井板の間や、床下と云つたような人目のつかぬ所に多くの金銀があつた。 その頃、大坂の見通しと呼ばれた京都大坂上八町の豊田貢との交簡が数種 あつた。次にさのときぬ両人を突合はせて、調査の結果、きぬはさの師匠 であることが明白になつた。彼等の行為は、禁制の耶蘇教の邪徒と認めて 京都の町奉行の神尾備中守へその旨を伝へ、大坂へ護送してしまつた。


幸田成友
『大塩平八郎』
その30

「浮世の有様 巻之一」
文政十二年
切支丹始末
 その1




























































京都大坂
京都八坂


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