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次に文政十年四月に起つて、三年の後に漸く、落着した邪蘇教徒逮捕の
一件を述べる。文政八九年の頃、堂島辺へ京都から、宮方の隠居と称する
ものが見えた。加持祈祷に巧で、吉凶禍福を予言して百発百中であつた。
信仰すれば、永遠に栄えるといふ触込みで、自らその所謂、宮方の御隠居
となつて気取つてゐたが、これが抑も一事件の発端を開く由因となつた。
それに対する世評が喧しくなつたので、奉行所は内面的に活動を開始した。
其の当時の掛与力が、即ち大塩平八郎と瀬田藤四耶の両人であつた。探つ
て見ると、立派な詐欺師であつた。
宮方の隠居と称する者は、西成郡川崎村憲法屋与兵衛の借屋に住んで、
京屋新助の母さのであつた。彼女が主謀者で、これが稲荷明神の信仰に心
酔してゐたが、とう/\加持祈祷によつて、病気その他、難渋の者を救ふ
と云ふ大看板を掲げた。修法者は、金、銀、又は衣類を納付せよ、すれば、
家業が繁栄すると云ふ触れ込みであつた。時には稲荷様から賜はる利銀な
どと、好い加減なことを云つて、少しばかりの割戻しをする方法をとつた。
その手先となつて金銭を掠奪した者は、忰新助、川崎村の憲法屋与七の
妻八重、堂島新地裏町の伊勢屋勘蔵、及びその妻とき等であつた。
文政十年正月に一同を召捕つた上、入牢せしめた。
家主与兵衛を初めとして、被害者は合計十九名であつた。衣類金品の一
切を詐取した高を銀に換算すると、七拾弐貫目余であつた。即ち約千二百
両、現今の金にしたら、六万四千円であつた。
慧眼の平八郎は、これは決して、尋常一様の巫女者流ではなく、確かに
特殊の信仰に鍛冶された何物かがあることを看破した。さうして更に鋭敏
なる活動を開始した。被害者の中でも最も横暴なる家主与兵衛は、人から
貰ふことなら何んでも貰ふが、出すことならびた―文でも出さぬと云ふ奴
であつた。それが彼女の一言で惜気もなく金銀を出すのは、何処かに秀れ
てゐる技巧があつた。彼の妻や母が、彼に強く意見をしたが、それは水の
泡であつた。調索隊はさのが以前住んでゐた堂島新地裏町播磨屋卯兵衛の
方へ手を廻した。卯兵衛の妻そよの話によると、さのの忰なる新助が、天
満龍田町播磨屋藤蔵の同居きぬ方へ毎日通ふのであつた。直にきぬを引致
して調べると、悪事が露顕されぬように種々と云ひ抜けをしたが、その効
果は上らなかつた。書簡を初めとして、種々の証拠品が上つた。家にはさ
のと同じやうに、稲荷明神を祭つてあつた。それは紙製の人形であつた。
天井板の間や、床下と云つたような人目のつかぬ所に多くの金銀があつた。
その頃、大坂の見通しと呼ばれた京都大坂上八町の豊田貢との交簡が数種
あつた。次にさのときぬ両人を突合はせて、調査の結果、きぬはさの師匠
であることが明白になつた。彼等の行為は、禁制の耶蘇教の邪徒と認めて
京都の町奉行の神尾備中守へその旨を伝へ、大坂へ護送してしまつた。
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幸田成友
『大塩平八郎』
その30
「浮世の有様 巻之一」
文政十二年
切支丹始末
その1
京都大坂
京都八坂
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