Я[大塩の乱 資料館]Я
2014.4.30

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「大塩の乱関係論文集」目次


『大塩平八郎』

その13

丹 潔

(××叢書 第1編)文潮社 1922

◇禁転載◇

第二章 与力時代
 第四節 邪蘇教徒事件 (2)

管理人註
   

 きぬは摂州伊丹新町の生れで、幼時にして父母に別れた。十六歳の時、 京都に赴き、諸所で下女奉行をして、七條塗師町京屋喜兵衛の妻となつた。 が、三十四歳の時、喜兵衛に死に別れて寡婦となつた。それから浴水とか、 不動心とかの修業を二年余やつて貢から秘法を授かつた。天満龍田町播磨 屋藤蔵方に同居して、貢と同様に稲荷明神を祭つて、信者を呼び寄せた。 きぬと姉妹の契を結んださのは、西成郡川崎村憲法屋与兵衛の借屋に住ん でゐた。京屋新助の母ではあるが、彼女も非常に逆境に育つた哀れな婦人 だ。生れると間もなく父に死に別れ、七歳にして母を喪つた。其後、独り 淋しく寡婦生活を送つた。浴水、不動心の秘法を七年も続けて、きぬから 受けた。  貢は越中の生れで、二歳の時、父母に従つて江州方院村に移つた。十二 歳の時、諸所で下女奉公に住込んだ。二十四五歳の時、二條新地明石屋に 抱へられ、『尾上』と、銘を打つて見世に出た。其後、縁があつて、土御 門家配下の陰陽師斎藤伊織の妻となつたが、文化七年に彼に棄てられた。 遂に彼女は独身生活をした。  此の七年の冬、新橋縄手の茶屋糸屋わさ方に約六十日間ばかり同居して ゐる中にわさとむかしから懇意な水野軍記と交つて秘法を受けた。それか ら、大坂上る町に家を持つて、易占、稲荷下しの看板を掲げた。邸内の稲 荷神社を『豊国大明神』と称し、また提灯にも、そのやうな文字を大きく 書いた。紋所には瓢箪を用ゐた。  きぬは、四月廿七日に、貢は六月十三日入牢した。  平八郎は厳重に調査を開始した。きぬとさのは、邪蘇教邪法を用ゐたと 白状した。けれどもその師匠の彼は隠した。授者は精屋わさであつた。彼 女は養実ともに忰娘がないので、寡婦で十年前に病死した。わさの所有し てゐた天帝如来の画像は、彼女が病死するとちよつと前に貢に托したが、 どうしたことか、行衛不明となつた。その画像を探索して、破壊しなけれ ば、根本的に改造することは不可能と認めた町奉行所では、日夜、苦心し たが、とう/\わさの養女なるいととときの両人の自白によつて発見の道 が開かれた。また両人を突合はせて、厳重なる調査を行つた結果、水野軍 記が師匠であることを白状した。  しかし彼の生地に就いては種々の説があるが、兎に角、西国生れのこと は疑ひはない。本業は手跡指南で、多くの門人がゐた。和漢の軍談に通じ、 また仏学易道にも精通してゐた。書は職業柄、勿論上手であつた。風采も 立派であつた。眼色は光々として骨格は逞しく、総てが天才的で、何物に 対してもひけを取らないと云ふ鋭さをもつてゐた。彼は、また手品師のや うな芸当もやつた。暗室で死人の姿を見せるとか、水の呪文の力で二尺も 跳び上らせるとか、壁に身体を着けたまゝ刀を抜くとか。またこんなこと もやつた。紙屑籠を、一縷の髪毛で吊して、見せるとか、六畳の室で二間 余の長鎗を抜くとか、二階と床下を一緒に震動させるとか。これらの芝居 がかかつたことが、当時の人を驚かしたと云ふものゝ、実は欺いたのであ つた。




下女奉行
下女奉公

幸田成友
『大塩平八郎』
その30

「浮世の有様 巻之一」
文政十二年
切支丹始末
 その1


































精屋わさ
糸屋わさ


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