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きぬは摂州伊丹新町の生れで、幼時にして父母に別れた。十六歳の時、
京都に赴き、諸所で下女奉行をして、七條塗師町京屋喜兵衛の妻となつた。
が、三十四歳の時、喜兵衛に死に別れて寡婦となつた。それから浴水とか、
不動心とかの修業を二年余やつて貢から秘法を授かつた。天満龍田町播磨
屋藤蔵方に同居して、貢と同様に稲荷明神を祭つて、信者を呼び寄せた。
きぬと姉妹の契を結んださのは、西成郡川崎村憲法屋与兵衛の借屋に住ん
でゐた。京屋新助の母ではあるが、彼女も非常に逆境に育つた哀れな婦人
だ。生れると間もなく父に死に別れ、七歳にして母を喪つた。其後、独り
淋しく寡婦生活を送つた。浴水、不動心の秘法を七年も続けて、きぬから
受けた。
貢は越中の生れで、二歳の時、父母に従つて江州方院村に移つた。十二
歳の時、諸所で下女奉公に住込んだ。二十四五歳の時、二條新地明石屋に
抱へられ、『尾上』と、銘を打つて見世に出た。其後、縁があつて、土御
門家配下の陰陽師斎藤伊織の妻となつたが、文化七年に彼に棄てられた。
遂に彼女は独身生活をした。
此の七年の冬、新橋縄手の茶屋糸屋わさ方に約六十日間ばかり同居して
ゐる中にわさとむかしから懇意な水野軍記と交つて秘法を受けた。それか
ら、大坂上る町に家を持つて、易占、稲荷下しの看板を掲げた。邸内の稲
荷神社を『豊国大明神』と称し、また提灯にも、そのやうな文字を大きく
書いた。紋所には瓢箪を用ゐた。
きぬは、四月廿七日に、貢は六月十三日入牢した。
平八郎は厳重に調査を開始した。きぬとさのは、邪蘇教邪法を用ゐたと
白状した。けれどもその師匠の彼は隠した。授者は精屋わさであつた。彼
女は養実ともに忰娘がないので、寡婦で十年前に病死した。わさの所有し
てゐた天帝如来の画像は、彼女が病死するとちよつと前に貢に托したが、
どうしたことか、行衛不明となつた。その画像を探索して、破壊しなけれ
ば、根本的に改造することは不可能と認めた町奉行所では、日夜、苦心し
たが、とう/\わさの養女なるいととときの両人の自白によつて発見の道
が開かれた。また両人を突合はせて、厳重なる調査を行つた結果、水野軍
記が師匠であることを白状した。
しかし彼の生地に就いては種々の説があるが、兎に角、西国生れのこと
は疑ひはない。本業は手跡指南で、多くの門人がゐた。和漢の軍談に通じ、
また仏学易道にも精通してゐた。書は職業柄、勿論上手であつた。風采も
立派であつた。眼色は光々として骨格は逞しく、総てが天才的で、何物に
対してもひけを取らないと云ふ鋭さをもつてゐた。彼は、また手品師のや
うな芸当もやつた。暗室で死人の姿を見せるとか、水の呪文の力で二尺も
跳び上らせるとか、壁に身体を着けたまゝ刀を抜くとか。またこんなこと
もやつた。紙屑籠を、一縷の髪毛で吊して、見せるとか、六畳の室で二間
余の長鎗を抜くとか、二階と床下を一緒に震動させるとか。これらの芝居
がかかつたことが、当時の人を驚かしたと云ふものゝ、実は欺いたのであ
つた。
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下女奉行
下女奉公
幸田成友
『大塩平八郎』
その30
「浮世の有様 巻之一」
文政十二年
切支丹始末
その1
精屋わさ
糸屋わさ
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