Я[大塩の乱 資料館]Я
2014.5.1

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「大塩の乱関係論文集」目次


『大塩平八郎』

その14

丹 潔

(××叢書 第1編)文潮社 1922

◇禁転載◇

第二章 与力時代
 第四節 邪蘇教徒事件 (3)

管理人註
   

 彼は文政七年に京都の祇園新地の借馬場で初めて、知恩院古門前三村城 之助事槌屋少弐と知り合ひになつた。彼の世話で二條家の祐筆頭となつた。 間もなく放縦の為に追ひ出された。文化十一年二月に閑院宮に住み込んだ が、金をつかつたためにゐられなくなつて、遂に逃げ出した。それは同十 四年十二月であつた。軅て召捕はれて、詮議を受けた。翌文政元年二月に とう/\お払箱になつた。『天帝如来の画像』の外は、家財諸式残らず没 収された。そこで四月に不明門通り松原下る町の中村屋新太郎の借家に住 んでゐたが、その七月に大阪に下つた。九月に再び京都に戻つた。同参年 のの四月に妻子を同伴して大坂に来た。平蔵にその世話を依頼したが、自 分一人長崎に往つた。暫く音信不通であつた。妻子はいつまでも平蔵の世 話になるのを気の毒に思つて、再び帰京し、鹿の子職をして、その日をど うやらやつてゐた。同五年に彼は長崎から帰つて、妻子と再び同棲した。 妻は六年に死んだ。彼はその翌七年の十二月に病死した。  この事件の立女方なる水野軍記が現存してゐないから、その関係者、及 び友人や知己を注目するより他に方法はなかつた。これを案出したのが、 実に大塩平八郎であつた。  それで軍記の葬式に会葬した者を検挙した。京都仏具屋町北小路上ル法 貴政助を初めとして、智恩院古門前元町三村城之助事槌屋少弐、柳馬場丸 太町寺田屋熊蔵等であつた。軍記の師匠と称して、彼と共に祇園の二軒茶 屋で貢の盃を受けた摂州西成郡曾根村藤井右門事伊良子屋桂蔵、軍記が長 崎に放浪してゐるころ妻子を世話をした大坂松山町高見屋平蔵、幕府が厳 禁せし書類を所蔵した堂島船大工町藤田顕蔵、永らく軍記を世話をした京 都不明門通り、松原下ル町、亡中村屋新太郎、江州水口宿北町江葉屋甚兵 衛、彼と同居せし軍記の実子蒔次郎等を捕縛して入牢せしめた。これは閏 六月から、七月へ亘つての事であつた。  斯様に大事件を引き起した所謂耶蘇教的宗教なるものは、どんなものか。 各時代を通じて見れば、解ることだが、宗教運動には必らず偶像崇拝が行 はれた。また、それと共に根柢のない迷信が裏づけられた。この時代にも それが行はれた。  第一は浴水、及び不動心の修業だ。真夜中に深山幽谷を歩行して疲労す ると、滝、または井水を浴びて、死に対して恐怖の念を抱かないように、 胆心を修養するのである。  第二はセンスマイルハラソの呪文を一心に口中で唱へる。センスは耶蘇。 マルはマリヤ、ハライソは極楽に行けると云ふ意義である。  その二つが根本問題である。真髄はそこにある。その他は加持祈祷であ る。  病人が出来れば、紙で人形を製作して、その裏へ病人の姓名年月を記す る。さうして板へ張付けて、病根のところへ幾本となく大きな釘を打ち込 む。毎夜子(夜の十二時)から丑(午前二時)の間、即ち二時間、清水を 鉢を汲んで、それを人形に振り掛けて、一心に『天帝如来』を念ずれば、 病気は平癒することになつてゐる。平癒すれば、先方から、礼銀を持つて 来る。たゞ紙人形に対して『天帝如来』を唱へるたけでも妙に金品が寄つ て来ると云ふのである。



文政七年
寛政七年



幸田成友
『大塩平八郎』
その30

「浮世の有様 巻之一」
文政十二年
切支丹始末
 その1

























曾根村
曾根崎村





江葉屋
紅葉屋


















幸田成友
『大塩平八郎』
その196


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