Я[大塩の乱 資料館]Я
2014.5.2

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「大塩の乱関係論文集」目次


『大塩平八郎』

その15

丹 潔

(××叢書 第1編)文潮社 1922

◇禁転載◇

第二章 与力時代
 第四節 邪蘇教徒事件 (4)

管理人註
   

 次の問題は当時の民衆の偶像崇拝の的となつた『天帝如来』の画像であ る。その画像は縦四尺横幅一尺計りの古画である。左手に小児を抱へ、右 手に剣を持つた乱髪の女の立姿で、これは大方、聖母マリアの像で、小児 はキリストだ。剣は十字架を示してゐるのであらう。――と云ふ話が伝つ てゐるが、平八郎は画像を発見することが出来なかつた。  検挙された彼等の白状したところによれば『天帝如来の画像』の拝観を 望む者は、拝観料として多大の金銭を卷揚げられた。その上、画像に血を 振り掛けた。これを見る事を許されたのは、貢及び彼の弟子のきぬの外に 高見屋平蔵、伊良子屋桂蔵の二人だけであつた。貢ときぬとは、右の中指 の血を取り、平蔵は左の五本の指の爪際の血を取つて、共に画像の胸に注 ぎ掛けた。桂蔵は誓文に血判を捺したと伝へられてゐる。  彼等はこれ以外に基督、十字架、懺悔、洗礼、天堂、地獄の何んたるか を説かなかつた。それから、宗教とは如何なる関係があるかを批判しなか つた。説かなかつたと云ふよりも、むしろ説くだけの確乎たる思想をもつ てゐなかつた。即ち宗教家らしい態度やその精神は毛頭もなかつた。勿論 民衆を救済するとか、精神的慰安などとかの色彩は一点もなかつた。ただ 人を驚嘆させたり、金銭を握つたりすることばかりであつた。  同じ信者なるわさと云ふ女は、例の『天帝如来の画像』を拝むことが出 来なかつたので、それが見たさに、遠く長崎まで出掛けて行つたさうであ る。それほどまでに画像は、信者の生命となつてゐた。  この事件を国法が厳禁した耶蘇教を信じたからと云ふ浮軽な眼で観察す るのは、至当ではないと思ふ。何故ならば彼等を耶蘇教徒と云ふよりも切 支丹信者、切支丹信徒と云ふよりも、切支丹秘法信者と認めるのが適当で あらう。  九州には隠れ切支丹信徒が多かつた。その中には、長崎附近の上村の如 きは、厳格なる法の下に隠れ忍んで聖像を祭つた。その事が発覚して縛に 就いたものが、実に一千余名であつた。その聖像と生命を交換する妙齢の 婦人も多かつた。それで、その聖像を掠奪して行く者があれば、自分達を 殺して行けと死を迫る老若男女も少くはなかつた。水野軍記一派は早くか ら、長崎で生活してゐたから、旧教徒の有する迷信に感化されたのではな いかと思ふ。支那に布教した耶蘇教の宣教師マリォ・リツチーの説を平蔵 に語つたと云ふ事もあつた。如何に表面上の形式が変つてゐても、その源 泉が切支丹宗門である事だけは、否認する事は出来ないのである。  幕府ではその調査が、不行届であつたにも拘らず、一同を切支丹宗門と 評議してしまつた。そこで評定方の役人は、同年七月、命に応じて評議書 を提出した。其の十二月五日に大阪町奉行の高井山城守から一同に申し渡 しがあつた。  貢、きぬ、さの、桂蔵、平蔵、顕蔵等は三郷の町中を引廻した上、磔と なつた。きぬ、さの、桂蔵、顕蔵の四名は病死したので、塩詰の死骸を磔 柱に載せた。さのの手先となつて働いた新助、八重、勘蔵等は吟味中に病 死した。勘蔵の妻ときは死罪となつた。其他は、牢舎、または手鎖五十日。 庄屋、年寄等は役儀取り上げの上、科料に処せられた。多くの人々は、そ の宗教のために倒れた。要するにこれで事件は落着した。  この事件の解決は実に大塩平八郎の力であつた。  第一には貪官汚吏の一網打尽を行つた。第二には悪僧処分に烽火を挙げ た。第三には国禁の邪教徒撲滅に刷新を計つた。 彼が一つ仕事をする毎 に民衆は、驚嘆の眼を注ぐと同時に歓声を揚げた。彼の名声は四方に喧伝 された。誰一人として知らない者はない位に有名となつた。やつと寺小屋 へ通ふような幼子でも、もう一歩であの世へ行く老人でも、常に彼の名を 口にするのであつた。民衆の舌から『大塩平八郎』と云ふ文字は離れなか つた。



幸田成友
『大塩平八郎』
その30

「浮世の有様 巻之一」
文政十二年
切支丹始末
 その1
 


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