Я[大塩の乱 資料館]Я
2014.5.3

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「大塩の乱関係論文集」目次


『大塩平八郎』

その16

丹 潔

(××叢書 第1編)文潮社 1922

◇禁転載◇

第三章 隱退してから
 第一節 辞表提出 (1)

管理人註
   

 平八郎名声は江戸、京、大阪はもちろんのこと諸州の隅にまで轟いた。  天保元年の七月、高井山城守は病老で辞職した。平八郎も辞表を提出し て、その職を退いた。彼はその職を養子たる同僚西田青太夫の弟格之助 (二十歳)に譲つた。この時、平八郎は三十八の男盛りであつた。  栄位にゐた平八郎が、その椅子を蹴つた異様な動作に、官府にゐる者や、 上流社会の人々、殊に一般民衆は驚いた。世の中は上へ下への大騒ぎにな つた。或る者は人間的だと賞めた。或る者は低能だと嘲笑した。平八郎は それらの言葉を悠然として聞いてゐた。  山陽の文に『聞くもの、驚愕せざるはなし。』とある。  で、平八郎は叔父の浅井中倫に『愚甞て之を思惟す。吾子の祖子はもと 華冑、而るに吾子は乃ち隷士胥吏と伍を為す。是れ其不満之意、有つて然 るか、抑も玉を抱いて下僚に沈み、驥足を展ぶる能はず、是を以て決然退 隠し、書を著し、志を拡べ、以て前賢と其趣を同うするかと、然れども今 佐藤氏に贈る所の書を看るに、吾子志学の年より志三変して、確然孔孟の 道に帰し、富貴も淫せず、威武も屈する能はざるの意あり。愚の量るが如 きは、乃ち官情を以て之を量れるもの、吾子の処るや、道徳を以て之に処 る、是を以て此齟齬有り、而して吾子の尚志や益々顕る。』とある。  また平八郎が佐藤一斎に与へた書に『意はざりき、虚名州県に満ちて、 因つて思ふ未だ実得有らず、而して虚名此の如し、是れ乃ち造物者の忌む 所、故に決然仕を致して帰休せり。徒に人禍を恐れて然るに非る也。』と ある。  彼は辞職の詩の序に『職は微賤なるも言聴かれ、計従はれ、大政に関し、 衙蠧を除き、民害を鋤き、僧風を規す、豈千歳の一遇に非ずや、而るに公 の進退乃ち此の如し、義共に職を棄て、以て隱を招かざるを得ず。』とあ る。  平八郎は例の宗教事件の当時から、高井山城守と内々辞職する相談をし てゐた。それは親しい間柄であつたからだ。二人はいつも一つになつてゐ た。で、山城守以外には再び仕従しないと云ふ精神もあつた。山城守が大 阪町奉行中で第一枚目を占めたのは、平八郎が表面に立つて働いたからだ。 平八郎は山城守の片腕であつた。女房役であつた。その為に他の町奉行が 山城守の飛ぶ鳥も落すやうな人気を地につけようと、種々な奸策を講じた。 また平八郎の同僚は彼の栄冠を呪怨して何かの口実を以て復讐せんとした。 それが彼に好く読めてゐた。彼は一挙一動に注意を積んで同僚に対して出 来るだけ謙遜な態度を示した。



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