Я[大塩の乱 資料館]Я
2014.5.20

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「大塩の乱関係論文集」目次


『大塩平八郎』

その33

丹 潔

(××叢書 第1編)文潮社 1922

◇禁転載◇

第六節 友人 (8)

管理人註
   

(頼山陽 つづき)  天保三年の四月に山陽が平八郎を大坂の屋敷に訪問した時であつた。い  つものやうに酒杯をとつて雑談に耽つてゐる。と、山陽は突然彼に向つ  て『貴方の学問は心を洗つて内に求めるのだが、僕の学問は外に求めて  内に貯へ、それを繰り出して詩文を創作するんだ。まるで君のとは反対  だ。一つ貴下の『古本大学刮目』の原稿を見せて貰はう。』と切り出し  た。  『よろしい。』と、その原稿を渡すと、山陽は拾ひ読みをした。  『これは好い物だ。本当の物だ。失礼だが、僕はこれに序文を書かう。』  『何分頼む。』と、平八郎は喜んだ。  山陽は、またその原稿を手に取つて見てゐると、日が暮れたので、『い  づれ上梓された後に批評をしよう。いま見た箇所に就いて云へば、聖学  の奥を突込んで隙間がない。その太虚説に深く服したよ。』と、愉快に  物語つて帰つた。  其後、山陽は間もなくして持病の肺疾の為に京都で死んだ。それは涼し  い秋のころであつた。  平八郎は彼の死を悲んで斯う記してある。            あらたま  『山陽、血を吐きて病革ると聞き、吾上洛して以て其家に到れば、其日  既に簀を易ゆ。大哭して帰る。夢の如く幻の如し。往事を追思するに、  向きに山陽の余を觴酒の際に訪ふや、其情之綣たる、果して永訣の兆  なりしか、鳴呼傷ましいかな。鳴呼、悲しいかな』と、更に筆を進めて、  『今、山陽をして命の延べて在らしめ、剳記両巻を尽さしめば、彼に益  せずとも、必ず我れに的するもの、蓋し亦た尠からざりしを、唯だ是れ  余が一生涯の遺憾なるのみ。』と述べてゐる。  平八郎は彼の死をひどく悲んだ。親か子かまたは、恋人が死んだやうに  悲んだ。平八郎は彼の死後一週間ほどは、毎日大声をあげて泣いたと云  ふことである。  平八郎は自ら『予の山陽と善くするものは、其の学に非ず』と云つてゐ  る如く、二人の親交は、むしろ全く意気の点に一致してゐた。  ところで、平八郎が山陽を論じて『我れを知る者は我心学を知る者なり。  我心学を知らば、未だ剳記の両巻を尽さずと雖も、而も猶之れを尽すが  如し。』と云つてゐるのは、必らずしも学問の広義を解釈したのではな  い。即ち兵衛の精神を解説したのだ。従つて二人が沈黙して座つてゐて  も相互に精神は物語つてゐた。二人は全く意気に感ずる人間であつた。  彼等は学者ではあつたが、所謂学者の如く、人間社会に没交渉ではなか  つた。人間社会の総ての物をよく知り、さうしてよく理解してゐた。  山陽が一代の傑作として、また日本文芸史上の一大創作たる『日本外史』  は、徳川の血縁たる河越侯によつて公表されたが、同侯に奉る書の中に  しても、幕府の忌諱を避くべく、巧妙なる方法を用ゐた。それには学者  は驚いたといふことだ。しかし山陽の仕事の背景には常に平八郎がゐて、  それを励したり、補つたりした。また平八郎の仕事の背景には彼が控へ  てゐた。さうして互に励み合つたのである。 (右に述べた外、著名の友人や門弟は多くあつたが、大塩派騒動が鎮定し て調査された際、幕府の圧迫を恐れて、姓名を取り消したり、また逃走し たものも尠くはなかつた。)











幸田成友
『大塩平八郎』
その54


『洗心洞箚記』(抄)
その34


































「益」が
正しい



































河越侯
「川越侯」が
正しい
松平氏
 


『大塩平八郎』目次/その32/その34

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