Я[大塩の乱 資料館]Я
2014.5.19

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「大塩の乱関係論文集」目次


『大塩平八郎』

その32

丹 潔

(××叢書 第1編)文潮社 1922

◇禁転載◇

第六節 友人 (7)

管理人註
   

頼山陽――名は襄、字は子成。通称久太郎。別に三十六峯外史と号した。  彼は安永九年十二月廿七日、大坂江戸北側一丁目浜側の寓居に生れた。  その時、父春水は卅五歳で、母は二十歳であつた。十歳の時に、論語を  終読した。また、十二歳に易を終読し、処女作の『立志論』を発表した。  寛政十二年に父の怒に触れて、廃嫡せられ、幽室に屏居して、享和二年  の二十三歳にかの大著述『日本外史』初稿に着手した。文化三年の二十  六歳に『織田氏』を脱稿。文化四年の二十八歳に『外史略』を脱稿し、  更に『新策』を完成した。文政十二年の五十歳に、白河翁が『外史』の  為に題言を書いた。天保三年の五十三歳に『政記』をなかば脱稿せしに、  同年八月四日に喀血すること、数回にして、死を覚醒し、九月二十三日  未刻暮六つに永眠した。彼は一世の碩儒であり、また能書家であること  は、誰人もよく認めてゐるところであるが、彼は日本の文芸史を彩る文  豪である。  数種の大著述の外に多くの詩文がある。三才の童子までが吟じてゐる  『不識庵撃機山図』と題する『鞭声肅肅夜渡河。暁見千兵擁大牙。  遺恨十年磨一剣。流星光底エ長蛇』は、実に山陽の創作である。平  八郎が『我を知る者は山陽に若くはなし。』と云つてゐるところを見る  と、互に愛し合つてゐた刎頚の友であつた。しかし二人がどうして斯う  なつたか、その本源は平八郎の自記に『夫れ山陽の善く詩文を属し、史  事に洞通するは、詩客文人の知る所、而して我れは嘗て吏と為り、訟獄  に与り参じ、且つ陽明王子の致良知の学を講ずる者也。世情を以て之を  視れば、山陽と相容れざるが如く然り、然れども往来断たず、送迎絶え  ざるは何ぞや。余の山陽と善くするは、その学にあらずして、窃に其胆  にして識有るに取る。而して山陽は何の観る所有つて、以て我と善くす  るか、吾初め識らざる也、庚寅の秋、余致仕の後、尾張の宗家大塩氏の  如き、以てその人の言ひ難き時事に於て、彼れ独り能く口を開いて之を  言ひ、忌憚之情態有る無きは、其胆の発見にあらずや。』 とある。こ  れによると、平八郎が山陽を愛するのは、学問よりも胆力に共鳴したの  であつた。  また、山陽が平八郎を愛好する点は、『送大塩子起適尾張序』によ  く説いてある。  山陽はその序の中に『故に子起を観るに、其敏に於てせずして其廉に於  てし、其精勤に於てせずして、其勇退に於てす。』と彼の人物を評して  ゐる。  また山陽は平八郎が栄冠の地位を占めたり、金銀を蓄へたりして喜ぶ者  でないことを知つてゐた。彼は閉居して読書するのが何よりの喜びであ  つた。山陽は彼の鋭敏なる才能よりも、純なる精神を愛した。また、彼  の精勤よりも、その勇退を愛した。山陽は彼の人物は、この二つの要素  から成立してゐると云つてゐる。  また、平八郎の自記によれば、平八郎所蔵の趙子壁の芦雁の書幅を山陽  が欲しがつてゐて、京都から大坂まで三度も足を運んだ。で、遉の彼も  根気負けがして、それを喜与したら、山陽は喜んで七言古体を一首おく  つた。  山陽が『日本外史』を著述する時に、平八郎の秘蔵の書物、胡致堂の『  読史管見』を借りた。普通の人だつたら、貸さなかつたが、山陽だから  貸したのであつた。その本を送返する時に、七言古体の詩を一つ礼とし  ておくつた。『日本外史』が脱稿した時に、平八郎はそれを一部貰ひた  ひと云つたら、此度は彼から写本を一部おくつて来た。斯う云ふ立派な  ものを只で貰つてはすまないと思つた平八郎は、代金は如何ほど進上し  たら、いゝかと尋ねたら、君のことだから金はゐらぬが、君がいつも佩  用してゐる刀を貰ひ度いと云つた。平八郎は有名な『月山作』九寸有余  の短刀をおくつたら、これにも山陽は七言古体の詩を一つ礼としておく  つた。



幸田成友
『大塩平八郎』
その83

江戸北側
「江戸堀北」
が正しい























「過河」が
正しいか






『洗心洞箚記』(抄)
その34


相馬由也
『民本主義の犠牲者
大塩平八郎』
その124






大塩氏
「大塩家」が
正しい

如(ゆ)き









幸田成友
『大塩平八郎』
その173
















幸田成友
『大塩平八郎』
その83


遉(さすが)


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