Я[大塩の乱 資料館]Я
2014.5.23

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「大塩の乱関係論文集」目次


『大塩平八郎』

その36

丹 潔

(××叢書 第1編)文潮社 1922

◇禁転載◇

第八節 思想 (2)

管理人註
   

      太虚は常住不滅である。人間が若し私慾に打ち勝つて太虚に突入すれば 不生また不滅となる。身体は朽ちても精神は死なぬ。精神が死ぬと云ふこ とを知つてゐれば、どんな危険をも恐れることはない。また、何者に対し ても恐れるに足ずだ。その精神を獲得すれば、総ての物に叛逆することは 出来る。実際、叛逆しても朽ないのである。通常人は徒に宇宙の無窮を考 察して、我を瞬間の者とする。若い頃に私慾を放恣して、年をとれば、そ れを憂へ、悔ひるのである。さうして身体の廃朽を恨んで、精神が死ふの を恨まないのである。       虚偽を去る事は、自分を欺かず、人を欺かないのである。唯、誠意を以 て総てを貫通しやうと努めるのである。  心は天理である。さうして至善である。たとへ物に感じて動いても、そ の根本は至善でなければならぬ。誠実の必要なのは、これがためである。 意が動く時には必ず意があるところのものがある。夫故に意を誠にするに は、その意があるところの物について、その正しからざる為を正さなけれ ばならぬ。それは虚偽を去ることである。  一例を上げて見ると、社会を改造せんと欲するのは意である。改造のこ とは物である。如何に改造すべきかを知るのが知である。我々は気稟の遍 るがために改造せんと欲求し、改造の道を知つて、それでも尚、改造の宜 しきを失ふことがあるだらう。これは意が誠でないからだ。改造の意を実 行し、さうして反省しても、恥づる事なく、満足するに至つてこそ、誠意 がある。これに到達するにはどうしても、虚偽を去らなければならぬ。  社会を知るのは知であつて致知ではない。即ち致知は物に於て、必らず 其の宜しきを獲得するにある。言ひ換へれば、正と意のところである。そ れでその致知とは、たゞその法を知るばかりではない。必らずこれを実際 に行つて然る後に云ふのである。即ち陽明は大学の所謂致知の知を良知と して、我が心の良知を意のあるところの事物の上に致さなければならぬと 説いてゐる。その結果がどうしても知行合一となる。  陽明はこの意を述べた。物の理は我が心に外ならぬ。我が心を除外して 我が心を求むれば、我が心はどうなるだらう。心を除外して理を求める。 これは知行の二つである訳である。理を我が心に求める。これは聖門知行 合一の教へである。  例へば肉慾を好んで、悪臭を悪むようなものである。肉慾を好むのは行 ひである。たゞその肉慾を見る時、既に自ら好むので、見てから後に、好 むの心を起すのではない。悪臭を嗅ぐのは知である。悪臭を悪むのは行ひ である。たゞその悪臭を嗅ぐ時、既に自ら悪むので、嗅ひでから後に悪む 心を起すのではない。と云ふように、平八郎は陽明の知行合一説をあくま でも信じた。さうしてそれに自主的の思想を入れて、自分のものにした。 それが当時の儒者とは全く反対の地位に立つてゐた。  故に平八郎の総ての思想を貫通して見れば、自主的人間主義の思想であ る。


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