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平八郎は字を子起、中斎、または後素、洗心洞主と号した。彼は『我学
すなは
は大学、中庸、論語を治むるなり。大学、中庸、論語は便ち是れ孔子の書
なり。孟子を治むるなり。孟子は便ち是れ孟子の書なり。而して六経、皆
亦孔子刪定の書なり。故に強ひて之を名づけて孔孟学といふなり。』と云
つてゐるので、自ら称して陽明学と標榜しなかつた。しかし彼は自ら創造
した思想とはしなかつた。彼の思想の大部分は陽明学に暗示されたのであ
つた。
彼の思想を五つに解説すれば、(一)太虚、(二)致良知、(三)変化
気質、(四)一死生、(五)去虚偽等である。
一
我等の胸宇の虚は、口や耳の虚と通じて一つになる。口や耳の虚は、ま
た太虚と通じて一つとなる。夫故に太虚と胸宇とはさう云ふように通じて
ゐる。太虚は即ち我等の胸宇に存在する。我等の胸宇は太虚を抱く。物で
口をふさげば、その人の呼吸は絶えて死ぬ。それは胸宇の虚が、閉ざさ
れて太虚に通じないためである。常人の胸宇の虚は聖人の虚と同どである。
常人が若し聖人の世界に到達しようとするには、先づ乱れた気質を叩き毀
はして、新たに創造し、さうして心を太虚に帰しなければならぬ。心を太
虚に帰するのは、私の慾望を取去つて自然の道理に存しなければならぬ。
聖人は言葉を放する太虚である。太虚は不言の聖人である。太虚と聖人と
は同じである。自分に打勝つてから、太虚に帰すれば聖人になる。それが
自覚から入らなければ、そこに大きな差がある。
二
孟子の所謂。良知は人が学ばずして知ることで、換言すれば、先天的に
固有する知であるが、陽明学の良知は一層大きなものである。即ち彼は心
の虚霊明覚よりなるのを良知となづける。良知は即ち心の本体である。従
つて良知は天理である。聖人である。真悟である。心即ち理である。遍満
充塞して永遠不滅である。心の本体であるところの良知は、また絶対であ
る。時間空間を超越してゐる。また、良知は絶対であつて、万物は皆これ
から発展する。それで人間ばかりが知を具へてゐるのではない。草木瓦石
も、また同じくそれを具へてゐる。人と万物との相違は気稟の遍正による。
我等は良知はあるが、気稟によつて私慾に蔽はれて、天理に純なることが
出来ぬ。良知を放つけれど獲得することを知らぬ。そこで良知の必要が起
る。良知は私慾や妄念を去ることだ。で、学問の要は私慾を去つて、本然
の良知を致すことだ。大学の所謂良知は、この良知を致すことである。
三
理は遍満して残すところなく、絶対に至善である。象山は陽明の学説に
よれば、我が心は即ち理であると云ふ。物の理は我が心に外らぬ。我が心
を外にして物の理は求められぬ。物の理を遺して我が心に求むれば我が心、
亦何者ぞと云ひ、或ひは総ての理は我が心に外ならぬ。而して必らず宇宙
の理を窮むと云ふのは是れ殆んど我心の良心を以てまだ足らずとし、必ら
ず宇宙の広大を求めて、以て之れを捕捉する。之れは心と理とを二つに分
ける。従つて朱子が総ての事物に就いて、其の理を窮めんとするのには、
心と理を二つに分ける。心は即ち理なることを知らざるがためである。心
は即ち理である。我が心は即ち聖人の心であるとすれば、聖人と非聖人の
区別はない。その区別があるのは、心に差別あるのではなく、私慾に蔽は
るゝと、天理に純なるとの別あるがためである。聖人の心は鏡のやうに明
かである。通常人の心は曇つた鏡のやうである。通常人の心が斯様に曇つ
たのは、気質が不純に傾くからで、気質を変化すれば、常人でも天理に純
なることが出来る。即ち気質の変化によつては、常人も、また聖人の世界
に到達することが出来る。
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幸田成友
『大塩平八郎』
その186
井上哲次郎
「大塩中斎」
その22
胸宇
心の中
井上哲次郎
「大塩中斎」
その23
遍満
広くいっぱい
にいきわたる
こと
井上哲次郎
「大塩中斎」
その24
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