Я[大塩の乱 資料館]Я
2014.6.5

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「大塩の乱関係論文集」目次


『大塩平八郎』

その49

丹 潔

(××叢書 第1編)文潮社 1922

◇禁転載◇

 第七節 計画は破れた (5)

管理人註
   

 大塩派の騒動はこれで沈まつた。町奉行所側は大塩派と二度小さな衝突 をやつたきりであつた。町奉行側は一人も負傷はなかつた。大塩派では梅 田源左衛門一人だ。その他の二名は人足であつた。  大塩派は淡路町で姿を隠した。しかし幹部連は一人も捕縛されなかつた。  大坂城、及び町奉行の警衛は厳重となつた。在阪蔵屋敷の役人は、町奉 行所や其他の要所を固く守衛した。  城代土井大炊頭は、本丸内を昼夕二回巡視した。目付中川半左衛門、大 塚太郎左衛門の両名は、交代に城内を巡視した。また時々城外に出て種々 の報告を城代へ上申した。大手門の守衛は大炊頭が自らこれを握つてゐた。 土俵を築いて、その上に大砲二門をそなへつけた。別に二門を設備した。 門前には柵を結んで竹束を並べた。番頭物頭は門内に控えた。足軽百人は 具足を着して銃を握つて門の西手北向に陣取つた。  尼崎城主松平遠江守忠栄の一番手は門の南西向に陣営を張つた。京橋口 は定番米倉丹後守が不在なので、山里丸加番土井能登守が仮にその衆を領 した。守衛の砲数は四門であつた。  門外には岸和田城主岡部内膳正長和の一番手、及び高槻城主永井飛弾守 直与の兵が控へた。玉造口には定番遠藤但馬守は柵を結んで鉄砲を並べた。 青屋口には加番米津伊勢守、雁木阪には加番小笠原信濃守の馬印を立てた。 中小屋加番井伊右京亮は遊軍として青屋口に控へた。大番頭菅沼織部正、 北條遠江守は本丸に控へた。諸士は皆具足を着して、抜身の槍、切火繩の 鉄砲を携へた。篝火は数百も焚いたので、附近は炎の海となつた。  尼崎、岸和田の二番手、群山、淀の兵も繰込んだ。一番手は家老、用人、 目付から、足軽仲間に至るまで、総勢三百三十余人であつた。二番手はや はり同数で、別に大砲隊があつた。一番手同様に大手に詰め込んだ。その 後京橋口へ移動した。また山城守の要求によつて造口、吹田へ赴いたので ある。  岸和田の一番手は、物頭、大目付以下二百余人であつた。二番手は四百 余人だ。これは天王寺辺に陣した。また郡山は一番手、二番手、三番手を 換算すると七百余名であつた。大阪から遠距離の為に、二十日午後、一二 番手は大手に進んだ。三番手は玉造口に張ることにになつた。番場から玉 造に陣を移動したのが、高槻と京橋口の淀とは兵数は非常に多かつた。  十九日の暁方、堺奉行曲淵甲斐守景山は外の用事で来阪したまゝ城中に 残つた。その配下の与力同心が堺から駈つけてから、これを引率して、西 町奉行の役宅に入つた。伏見奉行加納遠江守久は東町奉行の役宅に入つ た。  大坂の諸蔵屋敷の役人に戦闘準備の命令が下つたが、破損された銃ばか りで躊躇した。また銃があつても弾薬がなかつた。買入れようとしても、 十九日の夜に火薬販売の禁止令が下つたので駄目であつた。彼等はやむを 得ず、破損された銃を握つたまゝ守衛した。とは実に滑稽至極だ。かやう にして十九、二十日の両日は、混難と準備のうちに過ぎた。二十一日から 各藩の兵は漸く尻が落ち着いた。  暴火はなほ容易に鎮止しなかつた。それで二十日の夜九時頃に漸く消え た。  延焼区域は、天満では、川崎から堀川まで、北は大川から、南は内東町 筋までゞあつた。焼失家屋は三千三百八十九戸、竈数は一万二千五百七十 八個、明借屋千三百六戸、土蔵四百十一所、穴蔵百三十ケ所、納屋二百三 十ケ所、寺院十四ケ所、道場二十二ケ所、神社三ケ所、神主並に大家屋敷十  【数十行欠】



幸田成友
『大塩平八郎』
その144










犬塚太郎左衛門
「犬塚太郎左衛門」
が正しい































群山
「郡山」が
正しい



造口
「守口」が
正しい

































幸田成友
『大塩平八郎』
その145



大塩焼け 被害一覧




内東町筋
「内本町筋」
が正しい
 


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