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ひとたび
平八郎は一個の人間としては極めて篤実であつたが、一度公務にたづさ
れんちよくしゆんげん
はる与力大塩平八郎になると、これはまた廉直峻厳で、如何なる権勢も眼
(ママ)
中になかつた。だから、何年も持ち越してゐたやうな復雑した事件も、平
またた
八郎の手に掛かると瞬く間に解決した。一体、当時の与力などと云ふ者は
極く軽い身分であつたから、学識もなく、節操もない人間が多かつた。従
つて市井の出来事は賄賂によつてどうにでもなつた。さうした人達の中に
ふる
在つて、大手腕を揮つた平八郎が神のやうに思はれたのも無理はなかつた。
けれども、平八郎が思ふ存分にその手腕を揮ふことのできたのは、大阪
東町奉行高井山城守実徳があつたがためであつた。高井は文政三年十月、
わか
即ち平八郎が近藤重蔵と訣れる前年、山田町奉行から転じて、彦阪和泉守
の後釜として大阪東町奉行となつた人で、もうその時は六十何歳といふ老
めい
齢であつたが、非常に温厚な君子人で、人を見るの明があつたから、平八
めやすあらため
郎を抜擢して、目安改吟味役とした。これがために今までは与力としては
いつてう
少しも認められなかつた平八郎が、一朝にして大手腕を認められることに
すぐ
なつた。従つて、彼の役人としての秀れた功績も、皆この高井の在職中に
現はれてゐる。平八郎の取扱つた事件はかなり多いが、そのうちで有名な
みつぎ ゆ げ
のは、文政十年の切支丹の妖女益田貢事件。文政十二年の姦吏弓削新左衛
門事件、天保元年の破戒僧事件の三大疑獄であつた。
益田貢の事件といふのは、当時禁制であつた切支丹宗を弘める者があつ
まんえん
て、それが近畿地方に蔓延したので、高井山城守は、平八郎に命じて一掃
ば あつち こつち
しようとした。そこで平八郎は商人に化けて京都へ往き、彼方此方と探つ
かみ みこ
てゐると、八坂上の町に益田貢といふ巫女がゐて、加持祈祷をして病人を
なほ
癒し、又人の吉凶を判断して、それで得た金を貧して人達に施して、信者
を作つてゐた。平八郎はその巫女を怪しいと睨んだので、お加持にかこつ
けて、貢の家へ往つた。貢はもう五十前後の女であるにも係はらず、綺麗
に化粧をして、信者のために祈祷をしてゐたが、その仕方が普通の陰陽師
のすることと違つてゐた。
くは
平八郎はそこで貢の素姓を精しく探つてみた。貢は肥前唐津の浪人水野
軍記といふ切支丹宗の残党での弟子で、水野の遺言によつて切支丹宗を弘
めやうとしてゐる者であつた。平八郎はもう躊躇する必要がないので、二
つ もと
人の組同心を供れて、元の与力になつて八坂の貢の許へ往つた。
ひど
貢はその役人が何時か来た商人であつたので、びつくりすると共に、酷
く怒つて、平八郎を睨みつけ、怪しい呪文を唱へだした。平八郎はそんな
ことには眼もくれず、いきなりあがつて往つて、怪しい堂の前に坐つてゐ
る貢を蹴倒して縄をかけ、そのまま大阪へ伴れて来て調べにかかつたが、
事件が非常に復雑してゐたので、文政十年八月、高井山城守が幕府へ報告
う
をしてから、幕府の評定所の裁決を得るまでに三年間もかかつた。そして、
文政十三年になつて、貢は大阪二郷引廻のうへ磔の刑に行ひ、宗徒五十六
えいらう
人には永牢を申しつけて、ここに未曾有の疑獄は落着した。
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石崎東国
『大塩平八郎伝』
その37
幸田成友
『大塩平八郎』
その30
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