Я[大塩の乱 資料館]Я
2014.1.27

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「大塩の乱関係論文集」目次


「大塩平八郎」
その10

田中貢太郎(1880-1941)

『大塩平八郎と佐倉宗五郎』
(英傑伝叢書10)子供の日本社  1916 所収

◇禁転載◇

六 与力としての平八郎 (1) 管理人註
  

                         ひとたび  平八郎は一個の人間としては極めて篤実であつたが、一度公務にたづさ                    れんちよくしゆんげん はる与力大塩平八郎になると、これはまた廉直峻厳で、如何なる権勢も眼                         (ママ) 中になかつた。だから、何年も持ち越してゐたやうな復雑した事件も、平          またた 八郎の手に掛かると瞬く間に解決した。一体、当時の与力などと云ふ者は 極く軽い身分であつたから、学識もなく、節操もない人間が多かつた。従 つて市井の出来事は賄賂によつてどうにでもなつた。さうした人達の中に         ふる 在つて、大手腕を揮つた平八郎が神のやうに思はれたのも無理はなかつた。  けれども、平八郎が思ふ存分にその手腕を揮ふことのできたのは、大阪 東町奉行高井山城守実徳があつたがためであつた。高井は文政三年十月、            わか 即ち平八郎が近藤重蔵と訣れる前年、山田町奉行から転じて、彦阪和泉守 の後釜として大阪東町奉行となつた人で、もうその時は六十何歳といふ老                        めい 齢であつたが、非常に温厚な君子人で、人を見るの明があつたから、平八        めやすあらため 郎を抜擢して、目安改吟味役とした。これがために今までは与力としては                 いつてう 少しも認められなかつた平八郎が、一朝にして大手腕を認められることに                 すぐ なつた。従つて、彼の役人としての秀れた功績も、皆この高井の在職中に 現はれてゐる。平八郎の取扱つた事件はかなり多いが、そのうちで有名な                 みつぎ           ゆ げ のは、文政十年の切支丹の妖女益田貢事件。文政十二年の姦吏弓削新左衛 門事件、天保元年の破戒僧事件の三大疑獄であつた。  益田貢の事件といふのは、当時禁制であつた切支丹宗を弘める者があつ           まんえん て、それが近畿地方に蔓延したので、高井山城守は、平八郎に命じて一掃                           あつち こつち しようとした。そこで平八郎は商人に化けて京都へ往き、彼方此方と探つ        かみ        みこ てゐると、八坂上の町に益田貢といふ巫女がゐて、加持祈祷をして病人を なほ 癒し、又人の吉凶を判断して、それで得た金を貧して人達に施して、信者 を作つてゐた。平八郎はその巫女を怪しいと睨んだので、お加持にかこつ けて、貢の家へ往つた。貢はもう五十前後の女であるにも係はらず、綺麗 に化粧をして、信者のために祈祷をしてゐたが、その仕方が普通の陰陽師 のすることと違つてゐた。              くは  平八郎はそこで貢の素姓を精しく探つてみた。貢は肥前唐津の浪人水野 軍記といふ切支丹宗の残党での弟子で、水野の遺言によつて切支丹宗を弘 めやうとしてゐる者であつた。平八郎はもう躊躇する必要がないので、二                       もと 人の組同心を供れて、元の与力になつて八坂の貢の許へ往つた。                                 ひど  貢はその役人が何時か来た商人であつたので、びつくりすると共に、酷 く怒つて、平八郎を睨みつけ、怪しい呪文を唱へだした。平八郎はそんな ことには眼もくれず、いきなりあがつて往つて、怪しい堂の前に坐つてゐ る貢を蹴倒して縄をかけ、そのまま大阪へ伴れて来て調べにかかつたが、 事件が非常に復雑してゐたので、文政十年八月、高井山城守が幕府へ報告                  をしてから、幕府の評定所の裁決を得るまでに三年間もかかつた。そして、 文政十三年になつて、貢は大阪二郷引廻のうへ磔の刑に行ひ、宗徒五十六    えいらう 人には永牢を申しつけて、ここに未曾有の疑獄は落着した。




























石崎東国
『大塩平八郎伝』
その37

幸田成友
『大塩平八郎』
その30


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