Я[大塩の乱 資料館]Я
2014.1.28

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「大塩の乱関係論文集」目次


「大塩平八郎」
その11

田中貢太郎(1880-1941)

『大塩平八郎と佐倉宗五郎』
(英傑伝叢書10)子供の日本社  1916 所収

◇禁転載◇

六 与力としての平八郎 (2) 管理人註
  

      ゆ げ  その次の弓削新左衛門事件といふのは、大阪西組与力に弓削新左衛門と いふものがあつて、役目を笠に着て、公事栽判には賄賂を取り、その他一 味の者と気脈を通じて、あらゆる罪悪を行つた。しかし、後難が恐ろしい ので誰れもそれを口にするものがなかつた。それを平八郎は高井山城守の                 あば 命を受けて、新左衛門一味の姦悪を発いて、新左衛門には切腹を命じ、そ の他の一味もそれぞれ罪に行ふた。  次の天保元年の破戒僧事件は、多数の僧侶を遠島に処した事件であつた。 自分達の地位が民心帰依の中心であることを奇貨として、私利を謀り、良 民を惑はし、戒律を破つて恥ぢなかつた乱倫の僧侶を片つ端から捕へて、 五十六人を遠島の刑に処してしまつた。それ以来宗門の風俗は日に日に正 しくなつた。  平八郎は、与力としてもうすることしはてしまつたので、それ以上思ひ                         やまひ ぢびやう 残すところはなかつた。それに、その二三年来の胸の病が痼疾になつたの で、平八郎ももうここらで隠居して、塾生の指導と著述に余生を送らうと 思つた。けれどもなかなか云ひ出す機会が見つからなかつた。一方高井の            ひと             ころ 平八郎を重用することは一とほりでなかつた。もうその比になると、表向 こそ奉行と与力であつたが、一室に対座する時は、互ひに相許し許された       ふんけい 未来をちぎる刎頚の友であり、老父とその息子とであつた。ところが、そ の年の秋、突然山城守が老齢と云ふことで奉行職を辞することになつた。 そこで、平八郎も知己に殉ずる意味もあり、又良い機会でもあるから、ま        ゆる だ高井の辞職の允されない前に、断然辞職して隠居し、与力の職は養子格 之助に譲つてしまつた。平八郎を知つてゐる人人は名与力を失ふことを惜 んで皆で止めた。             かみ 『いいや、もう俺は充分お上へ御奉公をした、これ以上のことは、蛇足と いふものだ、それに俺は、高井殿一人に仕へただけでもうたくさんだ、も ういい加減に俺を休ませてくれ。』              (ママ)  そして何人の言葉にも耳を借さずに辞職してしまつた平八郎は、その時 三十七歳であつた。



石崎東国
『大塩平八郎伝』
その40

幸田成友
『大塩平八郎』
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