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その前後から平八郎の学風を慕つて来る者がますます多くなつた。それ
がやがて家の中から玄関まで溢れる程の大人数になつてしまつた。そこで、
平八郎は規約七條を設けて、人格の秀れた青年に限つて入門させることに
した。一方手狭になつた家を増築して、旧塾、中塾のうへに、更に広大な
新塾を設けて、これら全部を洗心洞学堂といふことにした。洗心洞といふ
ぐら
のは、平八郎の書斎の名である。その書斎、即ち中塾には大きな書物庫が
一棟附いてゐたが、その中に蔵した幾千巻の書籍は平八郎の学者としての
素養を語るものがあつた。
今ここで洗心洞学堂の様子を述べて見ると、旧塾を講堂と云つて、そこ
の西側の壁には、平八郎の筆になつた、立志、勧学、改過、積善、の四つ
の格言を掲げ、東側には、呂新吾の格言十八條を掲げてあつた。平八郎の
書斎、即ち洗心洞はその次の中塾のことで、そこには平八郎の私淑する王
陽明の天成篇の一章が大書して壁に掲げてあつた。平八郎はそこを普通に
中斎と云つてゐた。平八郎の雅号の中斎はそこから出たものであつた。そ
の次が所謂新塾で、それは洗心洞と竹林とを隔ててゐた。塾生達が日夜文
武を習練するのは、その部屋であつた。
せは
平八郎ははじめ与力の職に在つた時分には、なかなか公務の方が忙しか
つたので、洗心洞学堂はしぜん片手間にやらなくてはならなかつたが、い
よいよ辞職してからは、その書斎を天地として、著述と教育を一生涯の大
事業とすることになつた。
平八郎は一体どう云ふふうに塾生達を教育したかと云ふと、まづ人間の
一番高い理想を大虚だと教へ、その理想へ近づかうと努力する人間の精神
う ことごと
を良知だと説き、人間は一旦この世の中に生を享けた以上、万人尽くがこ
の正しい良知によつて大虚に近づかなければならないと教へた。そして、
さうした言葉はただ理屈上ばかりでなく、毎日朝から晩まで実行しなけれ
こまぬ
ば何んにもならない、今に大虚の道に近づくだらうと、ただ手を拱いて考
へ込んでばかりゐてはいけない、大虚とは遠いところにあるのではなくて、
た そむ おこなひ
実は極く手近な、しかも誰れでもが容易に出来る、良知に叛かない行、そ
こに高遠な大虚の道があるのだと云つてゐる。だから、平八郎は当時の学
者たちが理屈ばかり上手で、行にちつとも現はさないやうな態度が大嫌ひ
であつた。
『どんなに偉い理屈を云ふ学者でも、行の上で同じやうに偉くなければ何
んにもならない、学問をしてゐながら、立派な行の出来ないやうな奴は、
本当の学問をしたのではない、学問の尊さはむつかしい理屈にあるのでは
なく、教へられた善いことを実行するところにあるのだ。』
くらゐ
従つて、平八郎は塾生達にそんなことを教へる位であるから、自分の言
葉と行をまづその手本にしようと決心した。善いと思つたこと、良知がそ
れは正しいと命じたことは、少しの躊躇もなしに行の上へ現はしてみる。
そして、どんなに少しでも、自分の行と言葉との上に喰ひ違ひがあれば、
あやまち たび
その過を二度としなくなるまで、百度も千度も自分を責めた。
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石崎東国
『大塩平八郎伝』
その49
幸田成友
『大塩平八郎』
その70
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