Я[大塩の乱 資料館]Я
2014.1.29

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「大塩の乱関係論文集」目次


「大塩平八郎」
その12

田中貢太郎(1880-1941)

『大塩平八郎と佐倉宗五郎』
(英傑伝叢書10)子供の日本社  1916 所収

◇禁転載◇

七 洗心洞学塾 (1) 管理人註
  

 その前後から平八郎の学風を慕つて来る者がますます多くなつた。それ がやがて家の中から玄関まで溢れる程の大人数になつてしまつた。そこで、 平八郎は規約七條を設けて、人格の秀れた青年に限つて入門させることに した。一方手狭になつた家を増築して、旧塾、中塾のうへに、更に広大な 新塾を設けて、これら全部を洗心洞学堂といふことにした。洗心洞といふ                                ぐら のは、平八郎の書斎の名である。その書斎、即ち中塾には大きな書物庫が 一棟附いてゐたが、その中に蔵した幾千巻の書籍は平八郎の学者としての 素養を語るものがあつた。  今ここで洗心洞学堂の様子を述べて見ると、旧塾を講堂と云つて、そこ の西側の壁には、平八郎の筆になつた、立志、勧学、改過、積善、の四つ の格言を掲げ、東側には、呂新吾の格言十八條を掲げてあつた。平八郎の 書斎、即ち洗心洞はその次の中塾のことで、そこには平八郎の私淑する王 陽明の天成篇の一章が大書して壁に掲げてあつた。平八郎はそこを普通に 中斎と云つてゐた。平八郎の雅号の中斎はそこから出たものであつた。そ の次が所謂新塾で、それは洗心洞と竹林とを隔ててゐた。塾生達が日夜文 武を習練するのは、その部屋であつた。                               せは  平八郎ははじめ与力の職に在つた時分には、なかなか公務の方が忙しか つたので、洗心洞学堂はしぜん片手間にやらなくてはならなかつたが、い よいよ辞職してからは、その書斎を天地として、著述と教育を一生涯の大 事業とすることになつた。  平八郎は一体どう云ふふうに塾生達を教育したかと云ふと、まづ人間の 一番高い理想を大虚だと教へ、その理想へ近づかうと努力する人間の精神                             ことごと を良知だと説き、人間は一旦この世の中に生を享けた以上、万人尽くがこ の正しい良知によつて大虚に近づかなければならないと教へた。そして、 さうした言葉はただ理屈上ばかりでなく、毎日朝から晩まで実行しなけれ                              こまぬ ば何んにもならない、今に大虚の道に近づくだらうと、ただ手を拱いて考 へ込んでばかりゐてはいけない、大虚とは遠いところにあるのではなくて、                          そむ     おこなひ 実は極く手近な、しかも誰れでもが容易に出来る、良知に叛かない行、そ こに高遠な大虚の道があるのだと云つてゐる。だから、平八郎は当時の学 者たちが理屈ばかり上手で、行にちつとも現はさないやうな態度が大嫌ひ であつた。 『どんなに偉い理屈を云ふ学者でも、行の上で同じやうに偉くなければ何 んにもならない、学問をしてゐながら、立派な行の出来ないやうな奴は、 本当の学問をしたのではない、学問の尊さはむつかしい理屈にあるのでは なく、教へられた善いことを実行するところにあるのだ。』                       くらゐ  従つて、平八郎は塾生達にそんなことを教へる位であるから、自分の言 葉と行をまづその手本にしようと決心した。善いと思つたこと、良知がそ れは正しいと命じたことは、少しの躊躇もなしに行の上へ現はしてみる。 そして、どんなに少しでも、自分の行と言葉との上に喰ひ違ひがあれば、   あやまち             たび その過を二度としなくなるまで、百度も千度も自分を責めた。



石崎東国
『大塩平八郎伝』
その49

幸田成友
『大塩平八郎』
その70


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