Я[大塩の乱 資料館]Я
2014.2.3

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「大塩の乱関係論文集」目次


「大塩平八郎」
その17

田中貢太郎(1880-1941)

『大塩平八郎と佐倉宗五郎』
(英傑伝叢書10)子供の日本社  1916 所収

◇禁転載◇

九 平八郎の対応策 (1) 管理人註
  

 跡部山城守は、赴任早早まづ窮民の救助策を講じてみたが、一向成績が あがらなかつた。それもその筈である。これが一地方の飢饉なら、ちよつ                         わた とした救済策でも役にたつことがあるが、日本全国に渉る大飢饉であるか ら、到底尋常一様な応急策ではどうにもならない。そんな場合には思ひ切 つた一大救済策を講じなければならなかつたが、姑息な跡部にはそれがで きなかつた。彼はもう手を拱いて見てゐるより他に方法がなかつた。この 有様を見て憤起したのは平八郎であつた。 『ええ、臓甲斐ない奉行だ、この気の毒な人たちが目に入らないのか、何 をぐずぐず考へ込んでゐるのだ、この一市民の俺でさへ、気の毒な人達を 傍観しては居られないのに、まして奉行が、よし、俺が教へてやらう。』  平八郎は早速明細な意見書を作つて、格之助の手から跡部山城守に差し 出さした。この意見書の内容はまづ次の二つがその重な條項であつた。  一、大阪町奉行の手許に保管中の上納米の一部を徴発して、窮民救済の   応急策に充てること。  二、大阪の富豪たちを説いて、五穀の買ひ占めを厳禁する一方、寄附金   を募つてそれを窮民救済の諸出費に充てること。  かうした意見書を町奉行に差し出した平八郎は、自身もこの場合手を拱 いてゐる時でないと、早速三井、鴻池などの関西第一流の富豪の邸宅へ出 かけて往つて一生懸命説いて聞かせた。 『今にも町奉行から布令が出るだらう、わしは今奉行跡部殿へ献策して来 たところだ、あなた方はいつも大金を儲けてばかりゐらつしやる、だから、 この宏大な屋敷で、こんな幸福な生活をしてゐられるのだ、しかし、この 立派な窓から町の有様を眺めなさるがいい、あれ、あのやうに幾すぢも煙                               しがい の立ちのぼつてゐるのを何と見られる、あれは餓死した町の人人の骸が積 みあげて焼き棄ててゐる煙でありますぞ、あれが見えますかな、いいや見               えないとは云はせませんぞ、彼の人たちはみんなあなた方の兄弟だ、あな              ちりば た方のこの大邸宅も、金銀を鏤めた調度類も、蔵の中に積んである大金の 山も、元はと云へば、みんな彼の人たちの汗とあぶらでできたものだ、あ なた方は彼の人たちが恩人だと云ふことを忘れたのではあるまい、こんな 時、応分の寄附をなさい、財物をいさぎよくお投げ出しなさい、それがあ なた方の世間へ対する大きな義務だ、わしには金がない、しかし、わしは       まごころ からだ 天から授つた真心と体とがある、わしはこの身を町の人たちのために捧げ るつもりだ、どうかして彼の人たちが、せめて一食にでも有り附けるやう にと奔走してゐるのだ、わしはこの通り両手をつかへてお願ひする、数千 万の窮民のためだ、どうか彼の気の毒な人達を救つてもらひたい。』  さう云つて、洗心洞の聖者として世に時めく大塩中斎は、商人の前に低      たび 頭して、幾度も幾度も真実な言葉を繰りかへした。  この平八郎の熱誠には、さすがの富豪たちも動かされた。 『おお、さうだ、大塩先生までが寝食を忘れて人のために尽してゐらつし やる、俺たちも人間だ、及ばずながら寄附をしよう。』  さう云つて、富豪たちは平八郎の申出に賛成して、互に相談の上、寄附                     ひそか 金を集めることになつた。平八郎、これを心密に喜ぶ一方、奉行へ献じた     きつさう 意見書の吉左右を待つた。


石崎東国
『大塩平八郎伝』
その90

幸田成友
『大塩平八郎』
その102


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