Я[大塩の乱 資料館]Я
2014.2.2

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「大塩の乱関係論文集」目次


「大塩平八郎」
その16

田中貢太郎(1880-1941)

『大塩平八郎と佐倉宗五郎』
(英傑伝叢書10)子供の日本社  1916 所収

◇禁転載◇

八 矢部駿河守と天保の饑饉 (3) 管理人註
  

 ところが、どうしたことか、その翌年も翌年も引続いて天候不順で農作    こと は凶、殊にそのまた翌年の天保七年になつては、そのどん底の恐慌が襲ふ                  ながあめ て来た。その年の二月から降りだした霖雨は、まるで天の底でも抜けたか と思ふ程降りつづいた。そこへ持つて来て、六七月になると、突如として 颱風が全国を襲ふたので、折角どうやら伸びて来た五穀をすべて叩きつけ、 全くその生命を奪つてしまつた。このときの天候不順は余程ひどかつたと 見えて、関東と云はず、関西と云はず、日本六十余州すべてがこの災害を かうむ              あが        と 被つた。それがために米価はまた騰りだして止め度がなくなつた。今でも   こた            持ち耐へてゐた五拾両の相場が復た昇りだして、百二拾両となり、百三拾 両となり、百四拾両、百五拾両、百六拾両となつて、日一日と昇るばかり                ひえ  きび であつた。そればかりか麦も豆も稗も黍も、有りとあらゆる食料の値段も、 米価に負けずにどんどんと昇つて往つたので、京都、大阪は云ふまでもな く、江戸、奥羽、山陰、山陽、殆んど何処へ往つても、食ふに食ふ物のな い哀れな人人が、道端で呻いてゐると云ふ騒ぎである。最初のうちは米の                               たぜり 代りに少しばかりの麦へ、木の実や、草人参、よめ菜、たんぽぽ、田芹な    どを混ぜて粥を作り、辛うじて露命を繋いでゐたが、それさへやがては奪           すくな      ころ ひ合ひの有様で、残り少になつた比には、もう道端と云はず、軒下と云は                    かさな ず、餓死した人の哀れな死骸が累累と積み重るといふ有様となつた。        はじめ  その歳の秋の初になつて、矢部駿河守は江戸勘定奉行に任ぜられたので、 前年のやうな敏活な救助策を取らないうちに、江戸表へ往つてしまつた。 その後任として赴任して来たのは、跡部山城守良弼といふ人であつた。そ の跡部が江戸からこの大阪に赴任して来る時、前任の矢部から心得になる やうなことを聞いて置かうと思つたので、出発の前日、矢部の役宅を訪問 して、その教へを乞ふた。すると矢部は笑ひながら云つた。 『いや、別にこれと云ふこともないが、ただ一つ、念のために申あげて置 きたいことがあります、それは大阪に与力の隠居で大塩平八郎といふ男が 居ります、これは尋常一様の与力の隠居ではなく、大変秀れた人物ですか ら、よくお用ひになると非常にお役に立つことと思ひます、しかしただ御 注意までに申あげて置きますが、この男を権柄づくでお使ひにならうとす                          かんば ると、これはまた大変なことになります、例へて云へば悍馬のやうなもの      ぎよ で、つまり御し方一つです、若しこの男に暴れられたら、それこそ天下の 一大事が起るだらうと思ひます、これは甚だ何んでもない事のやうであり ますが、実際は大変肝要なことですから、申添へて置きます、どうぞお忘 れならないやうに。』  跡部はこれを聞くと馬鹿馬鹿しくなつて来た。で、その帰り路で、伴れ てゐる用人の顔を見て云つた。 『何んのことだ、わざわざ出向く程のこともなかつた、矢部駿州と云へば、 大器量人のやうに聞いてゐたが、聞くと見るとは大きな相違だ、いやしく も町奉行として赴任しようとするこの俺に対して、たかが一与力の隠居風 情に気をつけろなどと、いやはや他愛もないことを云ふものだ、今日は生 れて初めて馬鹿馬鹿しい目に出会つたぞ。』 『さうですとも、与力の隠居がなんでせう。』  用人もそれに調子をあはせて笑つた。



徳富猪一郎
『近世日本国民史』
その22


石崎東国
『大塩平八郎伝』
その86

幸田成友
『大塩平八郎』
その100


桜庭経緯
「矢部駿州と
大塩平八郎
 


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