Я[大塩の乱 資料館]Я
2014.2.5

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「大塩の乱関係論文集」目次


「大塩平八郎」
その19

田中貢太郎(1880-1941)

『大塩平八郎と佐倉宗五郎』
(英傑伝叢書10)子供の日本社  1916 所収

◇禁転載◇

九 平八郎の対応策 (3) 管理人註
  

『お前達にどうして大阪の財政が解るのだ、第一この俺は天下の奉行だ、                             一与力の隠居の指図は受けん、お前たちはすぐ臨機の処置を採れと云ふが、 それは奉行職の俺の権限にある、どうしやうと、かうしやうと、大きにお           あづか       かみ 世話だ、天下の政道に与る者は、上将軍からの命令がなければ出来るもの ではない、しかも、明年は将軍家慶公が職を継がせ給ふといふ時だ、それ らの財源、また関東の米穀もみなこの大阪から差上げる手筈になつてゐる のだ、それだから一粒の米、一文の銭と雖も、如何に窮民救済だからとは 云へ、勝手に使つてしまふわけにはゆかぬ、一体、さうした政道の機密に まで口を入れると云ふのは不届千万なことだ、俺はこれ以上返答はしない、 しかし、これ以上かれこれ差し出口をするならして見よ、此方にも相当な 考へがあると、さうお前の父平八郎に伝へてくれ。』                        いかり  この澄し切つた言葉を格之助から聞いた平八郎の怒は大変なものであつ た。                        かみ 『おのれ、何んと云ふものの云ひかただ、将軍家が上御一人より重いとい ふことが何処の国にあるのだ、この皇居ののど首がこんなに窮してゐるの を見棄ててまで、関東を重んずるといふ馬鹿野郎、よし、貴様が遣つてく れなければ、この俺一人で遣つて見せる、さあ、俺の遣ることをしつかり と見てをれ。』  平八郎はさう憤起すると、早速その実行に取りかかつた。まづその手初 めとして、先頃説いて歩いた富豪連に人を遣つて、 『先達つてお願ひしてあることを、早速実行して貰ひたい。』  と云はせた。するとどうしたことか、意外にも皆拒絶の返事が来た。そ れは三井鴻池等も一旦は寄附するつもりであつたが、後で奉行と平八郎と  いきさつ の経緯を聞いて、急に後難を恐れて尻込みしたがためであつた。それはそ                        かん の翌日、格之助が奉行所へ出仕して、はじめてその間の消息を知つたので あつた。  平八郎は狂人のやうになつて怒り狂つた。 『おのれ、素町人、この平八郎を騙し居つたな、この大変な場合に、俺と 心を同じうして起ちあがる者はゐないのか、あの気の毒な人たちの悲鳴が 聞えないのか、ああ、俺は一体どうしたらいいのだ。』  その次の瞬間、平八郎は絶望のどん底に落ちてしまつた。それからの平                  おし 八郎は、まるで別人のやうに黙黙と、唖になつたのであるまいかと思はれ る程、何一言不満も云はずに、ただ日夜洗心洞三千の子弟の教育に没頭し て、あれ程に奔走して廻つた意見書のことなどは、もう忘れてしまつたや           あらし うであつた。それは大暴風の来る前の静かさではあるまいか。


石崎東国
『大塩平八郎伝』
その90

幸田成友
『大塩平八郎』
その102
 


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