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とし
寛政五年といふ歳は事故の多い年であつた。まづ幕府では一代の名執政
か せんげ うち
松平定信が彼の尊号宣下問題に失脚して、失意の中に老中の職を退き、ま
たそれに前後して民間では、彼の勤王慷慨の快男子高山彦九郎が筑後の久
留米で憤死を遂げ、また更に彼の海国兵談の著者林子平が幽囚の中に病歿
あんえい
したりなどして、永い間太平を謳歌してゐた徳川の覇道にも、漸く暗翳が
かかりだした。その寛政五年の正月二十二日に、一世の快傑、大塩平八郎
後素が生れたのであつた。それは徳島藩の家老稲田氏の臣、真鍋市郎の二
あかんぼ うしな
男として阿波国美馬郡脇町に生れたもので、嬰児の時に母を喪つたので、
母の縁故のある大阪の塩田喜左衛門の許に養はれてゐたが、七歳になつて
天満与力大塩平八郎敬高の養子となつた。国府犀東氏の大塩平八郎伝には、
あざ
平八郎の姻戚であつたといふ三宅玄達の書簡を引いて、阿波国美馬郡字新
町三宅の生れであるとしてあるが、要するに幕府の叛逆者としての大塩の
伝記が、明瞭を欠いてゐるのはやむを得ないことであらう。
大塩家は天満の川崎四軒町に屋敷があつて、養祖父の政之丞成余が当主
であつた。平八郎は幼名を文之助と云つてゐた。大塩家の養子となつた文
之助の性質はどうであつたらうか。それは癇癖の強い乱暴な少年であつた。
ひど
彼は外へ出さへすれば附近の子供を酷い目に合はせた。そしてその度ご
とに必らず隣家近所から苦情が来た。養父母はその都度仕方なしにあやま
りに往つた。あやまりに往つた後では懇懇と諭して聞かせた。諭して聞か
せると、数日の間は非情におとなしくなるので、この分なら大丈夫だらう
と思つてゐると、すぐまた乱暴をはじめた。ある時などは、隣家の子供の
か み つか
頭髪を掴んで近所の池の中へ放り込み、すんでのことに溺死させやうとし
たこともあつた。
かうなると一家の者も、心配を通り越して、途方に暮れてしまつた。中
でも人一倍に胸を痛めたのは養祖母であつた。どうかして文之助の粗暴な
なほ ばん みづごり
性質が癒るやうにと、朝に夕に神や仏に祈願を籠めた。それには水垢離を
取り、塩だちをすることもあつた。けれども文之助の性質は日に日に激し
くなつてゆくばかりであつた。それには我慢強い養祖母もさすがに弱つて
しまつたが、しかし飽くまでも、慈愛深い養父母は、勇気を奮ひ起して文
之助のために祈願を怠らなかつた。
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石崎東国
『大塩平八郎伝』
その5
幸田成友
『大塩平八郎』
その5
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