Я[大塩の乱 資料館]Я
2014.2.7

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「大塩の乱関係論文集」目次


「大塩平八郎」
その21

田中貢太郎(1880-1941)

『大塩平八郎と佐倉宗五郎』
(英傑伝叢書10)子供の日本社  1916 所収

◇禁転載◇

一〇 最後の決心 (2) 管理人註
  

 平八郎は、格之助はじめ家族の者が止めるのもきかず、その日沢山の塾          ぐら 生を指揮して、書物庫から数千巻の書籍を運び出させ、一方格之助に云ひ つけて始終出入の道具屋五郎兵衛を迎ひに遣つた。この有様を見て涙をこ ぼしたのは、洗心洞三千の塾生たちであつた。 『先生は一体、明日からどうなさるおつもりだらう。』 『先生の慈悲深いお心は世間へ今までによく通つてゐる筈だ、何もこの上 こんなことまでなさらなくとも好ささうなものだが………。』 『一旦お手離しになつたら、もう二度と先生のお手許には戻つては来ない のに。』  やがて、道具屋は書籍全部を六百五十両で引受けることになつた。その          すべ 他の家財を合して、総てで千両の金子を調達した。平八郎のこの行為に感 激した塾生たちは、各自思ひ思ひに寄附金の申し出をしたので、それを合                      ほどこ せて、一万枚の切手にして、街に群がる窮民に施した。  救助を受けた窮民たちは、平八郎を神のやうに伏し拝んだが、役人や富        つらあて 豪どもは却つて面当のやうに考へて憤慨した。平八郎の身辺はさうした敵            やかま の放つ流言や非難中傷で喧しかつたが、平八郎は泰然として初志を翻へす やうなことはなかつた。                    い く ぢ  初め平八郎の考へでは、何んぼ頑迷な意気壹のない奉行や富豪でも、一                          なら 市民の自分が実行して見せたなら、少しは恥ぢてこれに慣ふだらうと思つ                 はづ てゐた。しかし、その期待は見事に外れてしまつた。今までより一層奉行     ひややか も富豪も冷な態度をするやうになつた。 『ああ、もう何事も駄目になつた、俺の最後の実行さへ、意気地のない彼 奴等は黙殺してしまつた、もうこのうへの策は、この俺にはなくなつた、 惨忍な彼奴等は、この俺をどこまで苦しめるのだ、よし、このうへは、こ の平八郎が何をして見せるか覚へて居れ。』                かしら  平八郎は、中塾の自分の室で、頭だつた塾生に囲まれてゐた。塾生たち も皆歯がみをした。 『先生、先生がいつもお教へ下すつた良知を、こんな時こそ実行しなけれ ばなりませんぞ。』 『さうだ、さうだ、私たちはどこまでも先生のお力にならう』             えら                  やしき 『もうかうなつたら手段を択んでは居られません、片つ端から富豪の邸へ 火をつけて、財物を往来のものへ投げ与へてやりませう。』 『待て、富豪ばかりではない、無能な、大義名分を考へない俗吏の奴輩も 血祭にしてしまはふ、どうだ。』 『うむ、それがいい。』 『先生、私たちは飽くまでも先生のお手伝ひをいたします』              かんがへこ  それまで腕を組んでぢつと考込んでゐた平八郎は、その時はじめて口を 開いた。      『よし、遣らう、わしは前から最後の手段として、それを考へてゐた、今 こそ時だ、遣らう、何もかも捧げる物のなくなつたわしだ、こんどは、こ  いのち の生命を窮民たちに投げだすぞ。』      いづ  塾生達は何れも総立ちになつてこれを和した。やがて塾生たちは平八郎                              きた を中央に据へて、秘密会儀を開いた。その結果、天誅の旗上げは来る四月 十日早朝と云ふことに決定した。この日は東照宮の祭日で、城代土井大炊 頭利位、東町奉行跡部山城守良弼、西町奉行堀伊賀守利堅等が建国寺へ参 詣する日である。平八郎等はその日、その場所を不意に襲つて、俗吏の彼        ちうりく 等を天に代つて誅戮しやうといふのであつた。そして、その次の手段は、 富豪の邸へ火を放つて、金銀財物を掠奪して、それを窮民に分け与へてや ることであつた。 『よし、もう少しの隠忍だぞ。』 『天誅だ。』 『天誅。』       はや      おさ  塾生たちは逸る心を制へながら連呼した。それは天保八年二月十八日の ことであつた。


石崎東国
『大塩平八郎伝』
その103

幸田成友
『大塩平八郎』
その111
 


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