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その時、
『待て、諸君。』
と、誰れかが部屋の隅で怒鳴つた。
『何ツ。』
うしろ
殺気立つた一同は目を血走らして後を振りかつた。
『誰だ。』
平八郎は部屋の一隅を睨みつけた。
『先生、私でございます。』
さう云つて起ちあがつて来たのは平八郎門下の俊才宇津木矩之丞であつ
た。
『おお、君だつたのか、何故止めた。』
いつも
『先生、これは一体何んとしたことでございます、平生の先生のなされる
ぼうこ へうが
ことですか、今度のことは全く暴虎馮河の御軽挙です、第一今度の先生の
み な
この御計画は、大義の上から云つて、反逆と見做されるに相違ありません、
先生、私は今迄に先生にお背きしたことはありませんでした、が、こんど
だけは背きます、どうぞ、先生、もう一度お考へ直しを願ひます、先生、
どうぞお考へ直しを願ひます』
いさ
宇津木は誠実を面へ表はして平八郎を諫めた。この宇津木矩之丞は、洗
心洞学堂中での秀才で、人物識見ともにすぐれてゐたので、平八郎はかね
てから彼に敬服してゐたのであつた。それに非常に剛直な男であつたから、
どんな場合にも、衆と浮和雷同するやうなことはなかつた。これがまた平
八郎の気性にあつてゐた。しかし、この場合の宇津木の言葉は、平八郎の
耳に入らなかつた。平八郎は一言も口をきかなかつた。
宇津木にもかうして騎虎の勢に駆られてゐる場合、諫めても無駄と云ふ
ことは解つてゐた。宇津木は暗然として起ちあがつた。
『先生、では、もうこれ以上は申しますまい。私はどちらにしても死は覚
悟してをります、けれども先生と御一緒には参りかねます、たとへ此処で
いのち
生命を棄てやうとも、一旦私の正しいと信じた説は曲げられません、では、
私はこれで失礼させて戴きます。』
かはや
宇津木はさう云つてから、静に縁伝ひに厠の方へと往つた。その後姿を
平八郎はぢつと見送つてゐたが、やがて決然たる声で云つた。
『誰か、宇津木を殺して来い。』
『は。』
ひつさ
さう答へて十文字の槍を提げて起ちあがつたのは、大井正一郎であつた。
ちやうづばち ひ
そして大井が厠の方へ往つてみると、宇津木はもう厠から出て手水鉢の柄
しやく
杓でその手を清めてゐるところであつた。
宇津木と大井の目がぴたりと合つた。
『宇津木、大事の前だ、気の毒だが命を貰ふぞ。』
いきほひ
大井は 勢 込んで云つた。
『よし、覚悟の前だ、さ、何処からなりと突け。』
しづか
静に手を清め終ると、宇津木は縁先へ端坐して襟を開いた。
『宇津木、貴様ばかりは死なせはせんぞ、所詮は俺も後からゆくのだ、い
いか、突くぞ。』
くど
『諄い、大井、早く突け。』
『よしツ。』
ひらめ たふ
槍の穂先がきらりと閃いた。哀れ宇津木矩之丞は、大井の槍先に斃れた
のであつた。大井はそれを平八郎に復命した。すると、平八郎は今更のや
うに涙を流した。
『ああ、惜しい男だつた、しかし、大事のためには仕方がない。』
平八郎はしばしそこを去ることが出来なかつた。ちやうどその時、そこ
へ勢ひよく門口から駈けつけて来たのは、同志柄沢十郎と云ふ男であつた。
ととの
『先生、準備はすべて調ひました、旗さしものは大約五十本ございます、
どうぞ御下知になりますやうに、時が移つては宜しくありません。』
うち せ
さう云ふ中にも心急くのか、柄沢は半分起ちあがりながら平八郎を急き
立てた。
『よし、出やう。』
さ
初めて夢から醒めたやうに、平八郎は起ちあがつた。
げ ち
出動の下知はくだつた。
ど ら
槍、鉄砲、薙刀、鎧、兜、陣羽織、太鼓、銅鑼、旗さしもの。一隊は粛
粛として繰り出したのであつた。
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石崎東国
『大塩平八郎伝』
その113
幸田成友
『大塩平八郎』
その125
森 繁夫
「宇津木静区と九霞楼」
暴虎馮河
無謀な行為
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