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その時はもう平八郎の草した檄文が、大阪市の内外に隅から隅まで往き
渡つてゐた。 この天誅の檄文といふのは、平八郎とその一党の旗上げの
したた
趣旨を、貧しい人人に理解して貰ふために書き認めた、熱誠な血を持つて
書かれたやうな文章であつた。平八郎はこの文章の中で、一方には幕吏の
不都合を責め、また一方には窮民を救ふためには今度のやうな天誅を行は
あか くだされ
ねばならないと懇懇と説き明してあつたそれは「天より被下候村村小前の
ものに至る迄へ」と認めてあつた。その檄文は黄絹の状袋に包んであつた。
左にその檄文を掲げてみる。
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石崎東国
『大塩平八郎伝』
その108
幸田成友
『大塩平八郎』
その110
大塩檄文
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