Я[大塩の乱 資料館]Я
2014.2.13

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「大塩の乱関係論文集」目次


「大塩平八郎」
その27

田中貢太郎(1880-1941)

『大塩平八郎と佐倉宗五郎』
(英傑伝叢書10)子供の日本社  1916 所収

◇禁転載◇

十二 窮民の旗翻る (2) 管理人註
  

                      せうじん  四海こんきういたし候はば天禄ながくたたん、小人に国家をおさめしめ                      きみ         いましめ ば災害並至と、昔の聖人深く天下後世の、人の君、人の臣たる者を御 誡 おかせられ          くわんくわこどく 被置 候ゆヘ、東照神君にも、鰥寡孤独におひて、尤もあはれみを加ふべ       もとゐ おほせおかれ                    かみ くは是仁政の基と被仰置候、然るに茲二百四五十年、太平之間に追追上た    けうしや          きはめ           たづさはり                 おほやけ る人、驕奢とておごりを極、大切の政治に携 候諸役人ども、賄賂を 公に     おくりもらひ 授受とて 贈貰 いたし、奥向女中之因縁を以、道徳仁義もなき拙き身分に          へのぼ                  めぐら て、立身重き役に経上り、一人一家を肥し候工夫而已に智術を運し、其領 分知行所之百姓共へ過分の用金申付、是迄年貢諸役の甚しき苦む上へ、右 之通無体の儀を申渡、追追入用かさみ候ゆへ、四海の困窮と相成候に付、     うらま 人人上を怨ざるものなき様に成行候得共、江戸表より諸国一同右之風儀に 落入、         べつして          へい           いづ 天子は足利家以来別而御隠居御同様、賞罰の柄を御失ひに付、下民の怨何   こくそ 方へ告愬とてつげ訴ふる方なき様に乱候付、人人之怨気天に通じ、年々地                           つひ 震火災、山も崩、水も溢るより外、色色様様の天災流行、終に五穀飢饉に 相成候、是皆天より深く御誡之有がたき御告に候へ共、一向上たる人人心                まつりごと も付ず、猶小人奸者の輩、大切の 政 を執行、只下を悩し金米を取立てる 手段斗に打懸り、実以小前百姓共のなんぎを、吾等如きもの、草の蔭より     かなしみ 常常察し悲 候得ども、湯王武王の勢位なく、孔子孟子の道徳もなければ、 いたづら            いよいよ たかね 徒 に蟄居いたし候処、此節米価 愈 高直に相成、大坂之奉行並諸役人ど も、万物一体の仁を忘れ、得手勝手の政道をいたし、江戸へ廻米をいたし、                 いたさず 天子御在所の京都へは廻米之世話も不致、而已ならず五升一斗位の米を買 に下り候もの共を召捕杯いたし、実に昔葛伯といふ大名、其農人の弁当を 持運び候小児を殺候も同様、言語同断、何れの土地にても、人民は 徳川                  へだて         まつたく 家御支配のものに相違なき処、如此 隔 を付候は、全 奉行之不仁にて、 其上勝手我儘之触書等を度度差出し、大阪市中游民斗を大切に心得候は、            ぞんぜざる つたな      もつて 前にも申通、道徳仁義を不存 拙き身故にて、甚以厚ケ間敷不届之至、且三 都之内大阪之金持共、年来諸大名へかし付候利徳の金銀、並扶持米等を莫 大に掠取、未曾有の有福に暮し、町人の身を以、大名之家老用人格等に とりもちひられ           おびただ 被取用、又は自己之田畑新田等を夥しく所持、何に不足なく暮し、此節の          おそれ                     かうれう 天災天罰を見ながら畏も不致、餓死の貧人乞食をも敢て不救、其身は膏梁 之味とて結構の物を喰ひ、妾宅等へ入込、或は揚屋茶屋へ大名の家来を誘 引参り、高価の酒を湯水を呑も同様にいたし、此難渋の時節に絹服をまと                      いうらく ふけり       かな ひ候かわらものを妓女と共に迎へ、平常同様に游楽に耽候は、何等の事哉、 ちうわう      おなじ 紂王長夜の酒盛も同事、其所之奉行諸役人、手に握居候政を以て、右のも の共を取締、下民を救候義も難出来、日日堂島相場ばかりをいじり事いた     ろくぬすびと し、実に禄盗にて、決而天道聖人之御心に難叶、御赦しなき事に候、蟄居                           よんどころなく の我等、最早堪忍難成、湯武之勢、孔孟之徳はなけれ共、無拠天下のため と存、血族の禍をおかし、此度有志のものと申合、下民を悩し苦め候諸役   まづ 人を先誅伐いたし、引続き驕に長じ居候、大阪市中金持の町人共を誅戮お よび可申候間、右之者共、穴蔵に貯置候金銀銭等、諸蔵屋敷内に隠置候俵   それぞれ 米、夫夫分散配当いたし遣候間、摂河泉播之内、田地所持不致もの、たと                 やしなひかた ひ所持いたし候共、父母妻子家内の養方 難出来程の難渋之者へは、右金 米等取らせ遣候間、いつにても大阪市中に騒動起り候と聞伝へ候はば、里   いとはず 数を不厭、一刻も早く大阪へ駈向可参候、面々へ右米金を分け遣し可申候、 きよけふろくだい きんぞく 鉅橋鹿台の金粟を下民へ被与候遺意にて、当時の飢饉難儀を相救遣し、若 又其内器量才力等之有者には夫夫取立、無道の者共を征伐いたし候軍役に                くはだて も遣ひ申すべく候、必一揆蜂起之企とは違ひ、追追年貢諸役に至迄軽くい たし、 すべ 都て中興 神武帝御政道之通、寛仁大度之取扱に致し遣、年来驕奢淫逸の風俗を一洗 相改、質素に立戻り、四海万民いつ迄も 天恩を難有存、父母妻子を被養、生前の地獄を救ひ、死後の極楽成仏を眼 前に見せ遣し、堯舜 天照皇太神之時代に復しがたく共、中興の気運に恢復とて立戻り申べく候、                  あまた 此書付、村村ヘ一一しらせ度候へ共、数多之事に付、最寄の人家多候大村 の神殿へ張付置候間、大阪より廻し有之番人どもにしられざる様に心掛け、 早々村村へ相触可申候、万一番人ども眼付、大阪四ケ所の奸人共へ注進い たし候様子に候はば、遠慮なく面面申合、番人を不残打殺可申候、若騒動     うけたまはり 起り候を 承 ながら、疑惑いたし、駈参不申、又は及遅参候はば、金持の 米金は皆火中の灰に相成、天下の宝を取失ひ申べく候間、跡にて必我等を 恨み、宝を捨る無道者と陰言を不致様可致候、其為一同へ触知らせ候、尤 も是まで地頭村方にある年貢等にかかわり候諸記録帳面類は、都て引破、            おもんばかり 焼捨可申候、是往往深き 慮 ある事にて、人民を困窮為致不申積に候、乍 去此度の一挙、当朝平将門、明智光秀、漢土之劉裕、朱全忠之謀叛に類し 候と申者も、是非有之道理に候得共、我等一同心中に天下国家を簒盗いた し候慾念より起し候事には更無之、日月星辰之神鑑もある事にて、詰る所                 ともらひ は、湯、武、漢高祖、明太祖、民を弔、君を誅し、天討を執行候誠心而已                          まなこ     みよ にて、若疑しく覚候はば、我等の所業終候処を、爾等眼を開て看、 但し此書付、小前之者へは、道場坊主、或医師等より篤と読聞せ可申候、  若庄屋年寄、眼前の禍を畏れ、一己に隠し候はば、追て急度其罪可行候。 奉天命天討候       ひのととり   天保八丁酉年月日                        某 摂河泉播村村 庄屋年寄百姓並小前百姓共へ

石崎東国
『大塩平八郎伝』
その108

幸田成友
『大塩平八郎』
その110

大塩檄文


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