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うち
平八郎父子は不安な中にも、兎に角そこではしづかに眠れるだけでも幸
福であつた。けれども、何んとしても一日中その狭い土蔵の奥から一歩も
出られないのが窮屈で溜らなかつた。二人はそこで暫くの間忘れてゐた妻
子のことを思ひ出した。殊に格之助には、今年生れたばかりの長男文之助
があつたが、二人は大事を実行することに決心した日、それ妻子を親戚に
預けて置いたのであつた。
『今比は文之助はどうしてゐるだらう。』
我が子の無邪気な笑顔を思ひ浮べた格之助は、世の中が急に恋しくなつ
た。
『父上。』
『何んだ、格之助。』
『浮世が恋しくなりました。』
『馬鹿、お尋ね物の身で、そんな望みが遂げられると思ふか』
『でも、父上、天地は春でございます。』
『おお、春だつたな、早いものだ。』
『父上。』
『何んだと云ふに。』
『たつた一と目でいい、あの文之助の笑顔が見たうございます。』
め め め
『馬鹿奴、女女しいことを云ふな、そんな柔弱な心で再挙が出来ると思ふ
か、もつとしつかりしろ、俺たちの仕事は見事に失敗したが、決して無駄
ではなかつたぞ、喜べ、喜べ。』
『はい。』
二人は互ひにさびしく笑ひあつた。いつの間にか、季節は桜の花も散つ
て晩春になつてゐた。三月二十六日のことである。見吉屋の女中おみねと
あるひ ゐろりばた
云ふのが、一日暇を貰つて平野在の親許へ見舞ひに往つた。その夜爐端に
夕飯後集つた近所の者が、他愛ない世間話しをはじめた。ところが時節柄
話は自然と米の高い話に落ちて往つた。
『どうだ、この頃の酷いことは。』
『まつたく、これぢや今年も去年より酷いぞ。』
『かうなると米一升と小判一升ぢや。』
ばち
『違ひない、もうこの節は米一粒だつて無駄には出来ない、どんな罰が当
るか知れたものぢやないぞ。』
『全くだよ、三井か鴻池ぐらひの身代でなけれや、とても白い飯は口へ入
るものでないぞ。』
『や、全く、此の節ぢや何んだらう、いかに広い大阪でも、白い飯を食つ
うち
てゐられるのは、まづその辺の家だけだらうよ。』
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石崎東国
『大塩平八郎伝』
その122
幸田成友
『大塩平八郎』
その159
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