Я[大塩の乱 資料館]Я
2008.2.12

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「大塩の乱関係論文集」目次


『「近世日本国民史 文政天保時代』

その13

徳富猪一郎(1863-1957)著 民友社 1935

◇禁転載◇

    一三 仙石騒動の発端

仙右左京 の専恣 神谷転の 国元召喚 転の出奔 転の就捕 一月寺番 所役僧愛 の申出 右申出書 第二回本 文 友鵞の孤 忠 奉行所へ 願書差上 の趣旨 普化一宗 の覚悟 転の最も 虞るゝ所

こゝ 茲にお家騒動の一として、少しく語らんとするは、仙石騒動だ。此れは 天保年間、但馬出石の城主仙石家に於ける事件だ。当時仙石家の主、道 之助は、幼弱にして、其の同族の家老職仙右左京、其の家政を専らにし た。而して其の同僚荒木玄蕃を始め、苟も左京の意に随はざるものは、 或は其職を奪ひ、或は其禄を削りて放逐した。而して左京は其の子の妻 に、寄合松平主税の女を娶り、其の縁を辿りて、宿老松平周防守康任の                   じつきん 許にも出入し、過当の賄賂をもて、其の近となつた。           うたゝ 当時仙石家の士に神谷転なる者があつた。彼は同族仙石弥三郎の借人と なり、其の用人を勤めて江戸に在つた。左京が宿老の許にまで立ち入り て、其の威勢追々と増長する旨を、憂慮の余、之を勝手役河野瀬兵衛に 告げ遣つた。瀬兵衛は更らに之を年寄の某に告げ、遂ひに其言が左京の 党類に漏れたれば、左京は之を聞き、大いに驚き、急ぎ他事に托して、        瀬兵衛の罪を誣ひて、即日禁獄を命じ、厳しく責め問うた結果、其の神 谷転よりの報道なるを知り、此に於て転を国元に召喚することとした。 然るに噂は其命を受取るや、其禍の身に及ぶを察し、その夜出奔した。              しめ 此に於て左京は、転の兄神谷七五三を呼出し、噂を尋ね出す可きを命じ、 尚ほ江戸へも其趣を通じて、転の行方を捜索せしめた。 神谷転は仙石邸を逃亡し、麻布六軒家なる柔術の師範淀川伴五郎の周旋                           いうが にて、下総の国小金の一月寺に投じて普化僧となり、名を友鵞と改めた。                        いらい 此に於て左京は留守居をもて、町奉行筒井伊賀守へ頼し、見合次第転を 捕押んことを以てした。伊賀守は其の部下に命じ、横山町にて友鵞を召 し捕へ、仙石家に引渡さんとした。然るに転より強て申立つる旨あり、 奉行所にて審問を受けたしとのことにて、然も其の申立つる所、容易な            あがりや らなかつたから、一先づ揚屋に下された。此れが仙石騒動の前半だ。                  あいせん 友鵞の就捕に就ては、一月寺番所役僧愛より三回、天保六年六月廿一 日附、七月九日附、七月廿一日附、書面を以て申し出でた。第一回は、 神谷転が普化僧となりたる顛末を書き、普化宗徒に与へられたる特権に もとづ 原き、それ相当の待遇を与へられん事を申し出でたるものだ。今は之を 略して、第二書を掲ぐることゝした。   乍恐以書付奉願候。   拙寺末上総国三黒村松見寺看主友鵞儀、宗用にて差出候途中、同人   主家に於ゐて不埒有之由にて、町御奉行同心其外共多勢取掛り差押   候体故、一月寺役僧代之由、再三申断、御用有之候はゞ、一月寺番   所へ御同道之上可承段申聞候得共、更に不承容、理不尽に縄掛、其   儘右主家へ可渡趣故、猶又宗法も有之候に付、是非一旦一月寺番所   へ同道致呉候様申聞候処、筒井伊賀守殿御番所へ引連、即日入牢被   仰付、当時吟味中に御座候。   右転事友鵞、主家へ忠節之旨を含み罷在候間、全致亡命入宗候者に   無之、唯々奸臣之悪計に落入候時は、主家之浮沈無覚束、一途忠誠                    ひとへ   存込候間、兼而武流之隠家宗風と承、偏に孤忠を助抱頼出候。乍恐   東照宮様神智之御深慮も被為在候間、為立置候宗門之意味にも相叶   候に付、糺之上証人取之、抱置候得共、万一主家へ引渡等に相成候   ては、忠意空敷相成候儀不便之至、何卒格別の御慈悲を以、右友鵞   身分之儀者、於御奉行所御吟味被成下候様、筒井伊賀守様御番所へ   願書差出候得共、御取用に不相成、御戻しに相成候。其外仙石家へ   内談仕候処、不聞届、無是非当御奉行所へ御慈悲願書奉差上候儀は、   先達具に奉申上置候之処、今以御沙汰無之、且仙石家に於て、旧家   の老臣、忠志の者共四五人、奸邪逆臣之所計にて、減知蟄居等に相   成候者之内、去月死罪に相成候者も有之由、風聞有之候上は、奸臣   時を得、忠節罪道に死、後暴悪増長、邪曲成趣意有之上は、国乱を   引出し候に到り、虚無僧共之儀、天下の家臣、諸士之席に為立置候                              ゆるされ   故、表は僧形にて内心に武事を不忘、日本国中往来の自由を被免、   修行之内探き心得方も有之、国々之邪正、諸々の風儀得と致見分其   品に寄奉申上、天下の御大事に候得者、身命を投候儀、宗門極意に   御座候。   神谷転事友鵞、忠誠の者と見置候筋も有之候故、御慈悲之願書奉差   上候儀にて、万々一主家へ御引渡に相成候得ば、慶長以来被下置候   御掟の趣更に不相立、普化一宗被為御立置候詮も無之儀、一宗之者   共、覚悟仕候外無之、天下の武門の助と相成候宗意万端被為思召、   格別の御仁慈を以、転事友鵞身分の儀は、於御奉行、御吟味被下置   候様奉願候。以上。     未七月九日     一月寺番所役僧                  愛 印 当時神谷転の尤も虞るゝ所は、仙石家に引渡さるゝにあつた。若しさる        たちま 事あらば、彼は乍ち左京の為めに、刑死せられたであらう。されば極力                   こひねが 江戸町奉行に於て、審按せられんことを希うた。此の如くして仙石家の 一家中の問題は、晴れやかなる天下の問題と転化した。

   
 


「浮世の有様 巻之八 丹波織田家の騒動


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