Я[大塩の乱 資料館]Я
2008.2.26

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「大塩の乱関係論文集」目次


『近世日本国民史 文政天保時代』

その26

徳富猪一郎(1863-1957)著 民友社 1935

◇禁転載◇

    二五 大塩平八郎の告白 (二)

儒に学ん で慊らず 儒に対す る不平 懊悩煩悶 一條の活 路発見 陽明学に 入る 志遂げ名 揚る 致仕帰休 内省改過 是務む 佐藤一斎 に教を求 む 一斎に批 評を求む る趣旨

                    あきた 尚ほ大塩平八郎は、儒教を学んだが、自から慊らなかつた事に就き、左の 如く告白してゐる。   而して其時の志は、則ち猶ほ襲ひ取り外に求むるの功を以て、病去り   而して心正しきを望む者、而して軽俊の患を免かるゝ能はざる也。乃                             ち崔子鐘少年の態と与に、適ま相ひ同じ。而して材焉れに及ぶと謂ふ   には非らざる也。                           なり    ぬす   而して夫の儒の授くる所、訓話に非らざれば必らず詩章矣。僕暇を偸                 くわきふ   み以て之に慣れ習ふ。故に其の臼に陥るを覚えず、而して自から之   と与に化す。是を以て聞見辞弁、非を掩ひ言を飾の具、既に心口に在   り、而して侈然として忌憚無し、病却て前日よりも深きに似たり矣。   顧ひて其の志と与に径庭す、能く悔ゆる無からん乎。 彼は此の如く病を療せんと欲して、却つて其病を加へた。然も此れが為め に懊悩煩悶して、更らに一條の活路を発見した。其の顛末は、左の通りだ。   此に於て退いて独り学ぶ焉。困苦辛酸、殆んど名状す可らざる也。天   祐に因りて舶来の寧陵(呂坤)坤吟語を購ふを得たり。此亦た呂子病                こゝ      か   中の言也。熟詠玩味、道其れ焉に在らざる耶。恍然として覚る有るが           えんひ    ちか   如し。所謂る長鍼遠痞を去るに庶し。而して未だ全く正心の人と為る   能はずと雖も、然も自から幸ひに赭衣一間の罪より脱す矣。 此の如くして彼は遂ひに王陽明の学にたどり著いた。   是れ自りして又た寧陵の淵源する所を究む。乃ち其の亦た姚江(王陽   明)より来を知る矣。而して我邦藤樹、蕃山二子、及び三輪氏の後、   関以西、良知学既に絶矣。故に一人の之を講ずる者無し焉。僕窃かに   復た三輪氏翻刻する所の、古本大学及び伝習録坊本を、蕪廃の中より                          これ   さと   出し、更らに梢や功を心性に用ゆるを知る。且つ以て諸を人に喩す。   是に於て襲ひ取り外に求むるの志、又た既に一変す矣。   而して僕の志逐ひに誠意を以て的と為し、良知を致すを以て工と為す            みうしろ   に在り焉。爾来前を瞻後を顧みず、直前勇往、只だ力を現在の吏務に   尽す而已矣。是を以て君恩に報い、祖先に報ひ、而して古聖賢の教に   報ゆ、敢て人に譲らざる也。 彼は此の如くして到著す可き所に到著した。志遂げ業現はれ、功成り名揚 つた。   因つて思ふ、未だ実徳有らずして、而して虚名此の如し。是れ乃ち造   物者の忌む所、故に決然として仕を致し、而して帰休す矣。徒らに人   禍を恐れて然るに非らざる也。是時僕年三十又八矣。 彼は実に三十八歳にして、古人の所謂る強仕(四十歳)にも達せずして隠 居の身と為つた。是れ彼としては、実に一大勇決と云はねばならぬ。其の 事と場合と動機とは、各同じからざるも、松平定信が、三十六歳にして、 執政を辞したると、其の跡を一つにしてゐる。而して爾後彼は如何なる生 活をなしつゝあつた乎。   而して今や乃ち専ら性を小窓の底に養ひ、反つて観、内に省み、過を   改め、善に遷るを、惟だ是れ務めとす。然り而して良師友無きを以て、   其志を五十、六十に於て弛めんことを恐る矣。是れ僕の日夜に憂る所   也。今よりして如何に功夫を下さば、則ち其志益堅く立ち、而して心   は大虚に帰す矣。                  ふくよう   先生(佐藤一斎)亦た良知の学を服膺する者。僕因つて自から東に行   き、其道を以て相ひ見るを願はゞ、則ち夫子の孺悲を待つ者を以て、   僕を待たざるを知る。故に是を裁して、以て志を告げ、而して教を乞   ふこと便ち此の如し。其の簡率は則ち請ふ罪する勿れ焉。 此書は実に大塩が、天保四年四十一歳の時の作にして、彼が実に其の一生 一代の著作洗心洞箚記を刊行したる歳だ。而して此書の主旨は、その洗心 洞箚記を一斎に寄せて、其の批評を求めたるにあることは、此書の末段に 左の如く記してゐるを見て知る可しだ。                      をさ   且つ社弟輩、僕の箚記を梓して以て家塾に蔵む。畢竟其の転写の労に      のみ   代ゆる耳。敢て大方に示さゞる也。然も僕の志亦た其中に在り、‥‥   暇日覧観を賜ひ、而して彼此倶に教喩を垂れば則ち幸云々‥‥祭酒林   公(述斎)亦た僕を愛する人也。先生其邸に寓す、故に当さに聞き知        こひねがは      これ   るべし焉。冀くは先生覧後、復た諸を林公に転呈せよ。林公亦た一言   の教を賜ひ、以て共に僕を陶鋳せば、則ち其僕を愛するの誠、敢て感   ぜざらんや、敢て感ぜざらんや。 然も此の如き道学先生が、未だ五年に満たざる後に、大阪焼打事変の魁首 たらんとは。我も人も、思ひ及ばなかつた所であらう。

   
 


井上哲次郎「大塩中斎」 その8


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