Я[大塩の乱 資料館]Я
2008.2.27

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「大塩の乱関係論文集」目次


『近世日本国民史 文政天保時代』

その27

徳富猪一郎(1863-1957)著 民友社 1935

◇禁転載◇

    二七 幼時より壮時に至る大塩平八郎

大塩の幼 時 篠崎三島 に学ぶ 槍術砲術 を学ぶ 軽率を師 柴田に謝 す 大塩の自 尊心と復 讎心 幼時の意 気 正義の念

前に掲げたるは、畢寛大塩平八郎の精神的自伝だ。則ち彼が心境の変遷推 移を、自から告白したるもの、尚ほ此れよりして彼の履歴に就て、勧察せ ねばならぬ。 彼が幼にして父母を亡ひ、租父に養はれ、その後を承けたことは、既記の 通りだ〔参照 二五〕 彼の幼時若しくは壮時の行為に就ては、種々の伝説あれども、半は是れ彼                  ことさ を英雄視し、彼を梟豪視したる者の、故らに捏造したる乎、若しくは妄語 したるものであらう。但だ彼の成人後の性格に徴して、尋常一様の童子で なかつたことは云ふ迄もあるまい。 彼は八歳にして、篠崎三島の門に入り、十二三歳の頃は、既に四書五経以 下、経史の大義に通じたと云ふ。〔中斎先生年譜〕或は然らむ。三島の養                      子小竹の酔後放歌の詩中に、『吾社亦有人。僂指数某々。‥‥子起廉潔吏。 楽与貧儒偶。豪蕩外礼法。酔発獅子吼。』の句あるを見れば、彼が三島の 門に入りたることは、間違あるまい。 文化三年彼年十四、初て東町奉行詰所与力見習に出仕した。十五歳立志の ことは、既記の通りだ。〔参照 二五〕十七蔵柴田勘兵衛の門に入りて、 佐分利流の槍術を学び、入室の弟子となり、兼て中島流の砲術を学び、又 た其の奥義を極めた。就中槍術に至りては、関西第一の称あるに至つたと 云ふ。曾て彼が西宮勤番在勤中、姫路藩の宝蔵院流の師範某と術を角し、 其の成績を、師柴田に報じた。柴田之を聞いて其の軽卒を咎め、訓戒する 所あり、彼此に於て左の一書を呈して、過を謝した。   御教諭之逸々、有難奉承知候。誠に短才之私、前後を不顧、在番中閑   隙に堪兼、殊熱心之芸技、膝元にて稽古之響耳に徹し、風と誘に乗じ   試み候段、御委督之御教諭にて、今更実後悔破師命候。多罪何卒御宥   恕被成下候様奉願候。心中一決、中々迷之差起り候儀抔は無御座候。   聊驚し候儀は、御座候得共、何分思慮無之段、幾重にも、御仁恕奉願   候。此度は勤番所も違ひ、稽古は不仕罷在候間、此段御安意可被下候。   尤右之御咄不申上、御教諭等無之候はゞ、又々後悔を再び招き可申儀   も可有之処、御示教にて過改、以後相心得候様可仕候。尚其内帰坂出   席仕、拝面万々可申上候得共、先者右御受御侘迄草々如此御座候。以   上。九月十八日。 此の九月十八日は、何年である乎知り難きが、西宮勤番は、若年者の勤務 であれば、恐らくは二十前後の際のことであらう。     しかん 彼は剛愎鷙悍の性であつたとしても、苟も告るに其道を以てせば、決して 人言を容れない漢ではなかつたことは、此の一書を見ても分明だ。然も亦 た彼が如何に自尊心に富み、復讎心の猛烈であつたかは、左の挿話を見て も知る可しだ。   斎藤拙堂説話云、平八郎八九歳の頃、或時数多同僚の子弟と共に、天   満橋近く遊び居しが、恰も木枯吹く冬の初め頃、俄に響く半鐘に、某   町の出火と聞付け、小供等の騒ぎ走る処に、早馬にて乗附け来たれる   代官篠山十兵衛配下のもの、今しも御山の大将の如く、いきり居る平   八郎をば、あぶないと云ひさま横抱きにして橋の袖に持ち出して、其   儘馳せ去りたるを、平八郎跡にて歯を喰しばりて残念がり、代官の下   郎風情に辱められしとて、跡を追駈け、其夜篠山十兵衛馬前の提灯を          かたき   打破り、前刻の讐を討ちたりと、意気揚々引揚げたるが、後日此事発   覚し、祖父政之丞甚だ当惑したりし也。〔中斎先生年譜〕          しば 此事の事実と否とは姑らく措き、如何にも彼が幼少よりの気分が、此の挿 話に現はれてゐる。 又た彼が幼少の砌り、街上を行きつゝあるに商家の二童が、途上に担荷を 抛ち、互ひに相ひ闘ひつゝあるを見、走り寄り其髻を執り、汝等何んぞ主   ゆるがせ 用を忽にして、私争を事とするかと叱咤したれば、二童は驚き、争を止め、 さつくわう 倉皇謝し去つた。〔大塩中斎事蹟〕此れも亦た彼の性格の一片を、能く現 はしてゐる。 彼には彼自身の会得したる正義の念が、頗る旺盛であつた。されば苟も不 正の事あれば、それが我事であると、他人の事であるとを問はず、中心よ り之を矯正せねば已まぬ一念が存した。

      ――――――――――――――――――     平八郎、柴田勘兵衛に贈るの状        幸便申上置 柴田勘兵衛様               大塩平八郎 其後は御不信申上候内、追日秋気相催御揃益御勇健被成御座奉□□ 候。然ば此間御稽古日之儀相伺候処、御叮嚀に貴報被下難有委細承 知仕、其後可罷出処、御老中御巡見並雨天勝にて、彼是今日迄御無 信並欠席仕候処、亦々来月兵庫表へ勤番に罷越、則今夕より出立仕 候付、来月中欠席仕候。右体已前御稽古日等迄相伺、被仰示被下候 儀に有之候間、欠席之儀前以御断申上候。尚帰坂之上伺上、万々御 詑可申上候。且又当六月勤番中、姫路御家中何某と申もの、宝蔵院 之師範之由にて、西宮勤番所詰之同心どもへ致教授候付、私にも入 身いたし候様申勤め、勿論稽古之儀に付素槍を為取入身いたし、両 白き稽古を一月中仕、右之御咄等を参上御咄可申上と奉存候内、又々 勤番にて得御咄を不申上、遺恨不少候。尚其内参上可申上と存候。 此段序旁御咄申上候。追々冷気相募候間、折角御自愛専一に奉存候 以上。    八月廿九日 尚々幸便にさし上、且は多用の御中貴家には御免拾可被成下候以上。            [幸田成友著大塩平八郎より]   ――――――――――――――――――

   
 


石崎東国『大塩平八郎伝』その10
幸田成友『大塩平八郎』その168


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