Я[大塩の乱 資料館]Я
2008.3.4

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「大塩の乱関係論文集」目次


『近世日本国民史 文政天保時代』

その33

徳富猪一郎(1863-1957)著 民友社 1935

◇禁転載◇

    三三 奸吏と破戒僧

奸吏処分 与力の役 得 弓削新右 衛門の貪 慾 大塩の糺 弾 破戒僧侶 処分 古賀庵 の大塩観 豊田の怨 恨 弓削処分 冷酷 大塩退官 の一因

三大功績の二は、奸吏及び其の与党の処分だ。此れは文政十二年三月、 大塩平八郎三十七歳の時だ。彼は其の巨魁西組の与力弓削新右衛門に迫 つて、詰腹を切らせ、其の附随者数名を磔し、其の与党十数人を改易し た。 抑も大阪の町奉行附の与力は、高二百石、実収八十石に過ぎず、同心は 僅かに十石三人扶持で、役に付けば、別に手当もあるが、それも僅少の           はゞきゝ ものだ。然るに彼等の幅利は、往々二千石位の生活をしたと云ふ。そは 年頭と八朔には、三郷町々、又は諸株仲間からの附届があり、其他臨時 の収入が沢山ある。例せば商業上の訴訟の和解の如き、掛与力には、原 被双方から礼金を出す。御用金が済んだと云へば、掛与力に礼金を出す。 是等は当然向ふから持参するものだ。されば町与力にして少しく自から 貪らんとせば、収入の道は幾許もある。其下の同心も亦た然り。而して 与力同心の出役に伴ふ天満、天王寺、鳶田、千日前四ケ所の長吏、小頭、                   たくまし 若者の如き、亦た虎威を仮りて、威福を逞うし、市民を虐げ、其の憂を 為す少くなかつた。 弓削新右衛門は、西組与力の吟味役にて、西町奉行内藤隼人正の眷寵を 得、而して四ケ所の長吏、天王寺の安兵衛、鳶田の勘五郎、千日前の吉 五郎、及び新町妓楼の八百新等、其の爪牙となりて、大いに良民を悩ま した。八百新は己が女を進めて、新右衛門の妾となし、屋後に燕居を構                       たいまい へ、日夜同悪を延いて密議した。室中紙障の格、瑁を以て作る、其の 奢侈以て類推す可しだ。 弓削は東町奉行高井山城守の組下ではない。されど余りの悪事を見かね て、遂ひに大塩に其の糺弾を命じた。此に於て大塩は其の一妾さへも出 し、一切の係累を絶ち、必生必死の覚悟もて此事に従ひ、遂ひに之を処 分し、其の贓三千余金を挙げて、細民を賑恤したる次第は、既記の通り            うらむ だ。〔参照 三一〕但だ憾らくは、大塩事件の為めに、其の記録が湮滅 して、其の事実が精しく伝はつてゐない。 将た三大功績の第三は、破戒の僧侶の処分であるが、此れは天保元年三 月、彼が三十八歳の時だ。其の顛末も、精しく語る可き資料は無い。然 も彼が予じめ戒告を出して、破戒の僧侶を反省せしめ、其の之を開かざ るを見て、卓歯濫ュ、其の一掃的の手腕を振うたことは、之を想像する に難くない。 尚ほ天保八年九月十五日附にて、江戸の古賀庵の手著にかゝる『学迷             わず 雑録』は、大塩事件を距る、才かに半歳余に過ぎず。然も其の云ふ所、 頼山陽の序文〔参照 三一〕などとは、全く表裏相ひ反するものがある。 然も一説として、茲に掲げて置く。   或は曰く、貢(豊田)の刑に就くや、固より自から其罪を知る。   〔参照 三二〕然も亦た、後素(大塩)の惨虐不道を悪む。謂ひて   曰く、嗣で後ち幾時も無く、汝亦た必らず吾の今日の如けん矣と。   既にして果して然り。   或は曰く、貢の崇奉する所、陀羅尼天と名づく、仏教中の一邪法、   固より上の視ヨする所、然も罪は流るに止まる。後素自から其能を   ぬきんで   ことさ し   えうけう   擢んと欲し、故らに誣ゆるに教を以てす、貢の怨を積む此に由る   と。 以上は豊田貢の処分に関する批判だ。尚ほ弓削処分に就いても、古賀 庵は、左の如く記してゐる。                            ほしいまゝ   天満与力弓削七左衛門、班後素の右に在り、貪墨威福を擅にす、固                                まを   より辜有り、而して那んぞ誅に至らむ。後素其罪を列して上司に白                        す、又た従て而して之を羅織す。重典にゥくに当つて、因りて迫脅   して自刃せしむ。而して其の子を以て禄を襲がしむ。此れよりして            そばだ  るゐ   衆後素を畏れ、目を側て足をす。 如何なる事物にも、両面がある。大塩の功績は功績として、其の反面に 於て、彼が剛鋭果敢の気を濫用して、此れが為めに、或る方面からは嫉 妬せられ、或る方面から怨憎せられ、或る方面から畏悪せられ、逐ひに 三十八歳にして、其の長官高井山城守の老を以て、辞職を乞ふの事を聞 くと与に、身を以て退くの止む可からざるに至つたのであらう。乃ち彼               ちか は其の進退に於て、機を見るに庶幾しと云はねばなるまい。今ま仮りに 高井の告老なしとするも、恐らくは大塩は盛名の下、久しく居り難き事 情が、出で来つたであらうと、推察す可き理由が存する。

   
 


浮世の有様「文政十二年大塩の功業」その1


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