Я[大塩の乱 資料館]Я
2008.3.26

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「大塩の乱関係論文集」目次


『近世日本国民史 文政天保時代』

その47

徳富猪一郎(1863-1957)著 民友社 1935

◇禁転載◇

    四七 天保八年の劈頭

大塩の富 豪勧説 勧説聞か れず 更に金子 立替勧告 其返済方 法 また肯か れず 鴻池三井 不承知 跡部の大 塩申渡 聞書筆者 急機益迫 る

天保八年の正月は来つた。大塩は例によりて、大学治国平天下の章を講じた。                  はげ 其の時勢に憤慨する所あり、声色共に獅オく、門人敢て仰ぎ視る者なかつた。 彼は更に鴻池、加島等の豪富に向つて、左の如き策を行ほんことを勧説した。   平八郎殿、又候工夫を廻らし、鴻池始め加島屋、三井など、何れも大名          みみづか   貸致候家々へ、身親ら罷越、示談に及候には、当表之義、米穀高直にて   諸民大に困窮致候は、全体当地米払底故と存候間、何卒此節は諸大名定   式之貸付銀も、当時に限り素銀を御断り可被下。左候はゞ不得止持国の   米穀諸家より差登せ可被申、然らば自づと乍高直、米に事欠不申候道理   を向ふへ被申談候処、何方よりも御尤之儀に御座候得共、此儀は年来之   定式にて、此節相断り候はゞ、是迄貸付置候銀子は捨たりに相成可申、   此段能々御賢慮可被下との事返事に付、成程尤之次第に御座候。左候へ   ば拙者も得と勘考可致旨挨拶にて、大塩殿又々工夫被致候。   〔平戸藩士聞書〕  而して大塩は、更らに左の注文を持ち出した。   此程之御返答御尤至極に存候。併し何分此の場合の事に就き、諸民の難   渋見るに不忍候間、何卒各方より金子五千両づゝ、暫の処御取替置被下   候へば、向へ十二家にて六万両有之。右之金子を以て、仕方相立て候へ   ば当八月半迄には諸民之饑渇を救ひ可申候。左候はゞ此陰徳如何計りに   御座候半、何分御仁慮之程御頼申入候。尤も払入仕方之儀は、左之通に   御座候。   金子六万両、先づ六十匁の替にて代銀三千六百貫、此迄に当地一日入用   の小売米、極て内場積りにて四千石、但し新穀出来相場下落の上にて、   一石に付一匁づゝ運上と相定め、一日に四貫目有之候。一ケ月分にて百   二十貫目、但し一ケ年に千四百四十貫目、三ケ年にて四千三百二十貫目   と相成り、右之通の仕方に致候はゞ、小売米一升に付一文づゞ高値に相   成申候。〔同上〕 果して以上の通りの相談であつた乎、否乎、諸説区々であるが。兎も角も大 塩が豪富等に向て、救済策を提出し、彼等に向て、其の財嚢を開かしめんと 試み、而して遂ひに其の目的通りに行はれなかつたことは、疑ふ可からざる 事実であつたであらう。 尚ほ平戸藩士の聞書には、左の如くある。   右之通及示談候処、加島久右衛門方は異議なく承知之由、其外は乍不勝   承知致候得共、鴻池三井之両家は何分不得心之趣にて、彼此致候中、東   御番所跡部山城守樣へ手を入れ、賂賄等は不致候哉、大塩氏之仕組を打   挫き、跡部公より大塩氏に御沙汰有之候には、貴公之儀は、当時隠居之   事に候へば、此様之事は、構ひ有之間敷、強而被申候はゞ、曲事たるべ   く、強訴之罪に処す可し抔と、荒々敷被仰渡候由、大塩氏此儀を承はり、   言語同断、存外之仕合、此様之時節には、上よりも専ら仁政を施可申筈   之処、実に苛政とや可申。然る上は眼前に耻辱を受け、末代に汚名を流   さんよりは、諸民の為め、潔く一命を捨て、我が存分に事を発し、我計   ひ事を行ふべし云々、事乃ち急に迫る、時に正月八日也。〔同上〕 此の平戸藩士は、或は葉山左内であらうと云ふ説がある。左内は鎧軒と来し、 山鹿流の兵法を修め、後日には吉田松陰などとも交際があつた。而して彼亦 た大塩とも相知る。当時大阪にありて、平戸に向て報告したるものであるか ら、較々信ず可き理由があると云ふ説がある。〔大塩中斎先生年譜〕 何れにしても大塩の一身は、日一日注意人物としての監視が、緊切となつて     しゞま 来た。水蹙りて巨魚跳る。大塩も其の周辺を回顧し、寧ろ我より進んで、他       を制するに若かざる急機を看取したことは、間違あるまい。平らたく云へば、 天保七年九月以来、そろ\/準備に取り懸りつゝある大事を、愈よ実行せね ばならぬ場合に立ち到つたのだ。

   
 


〔平戸藩士聞書〕


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