Я[大塩の乱 資料館]Я
2008.3.29

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「大塩の乱関係論文集」目次


『近世日本国民史 文政天保時代』

その48

徳富猪一郎(1863-1957)著 民友社 1935

◇禁転載◇

第九章 大事漏洩
    四八 義盟の期日

大塩真意 打明の時 機 吉見九郎 右衛門吟 味書 平山助次 郎吟味書 橋本白井 申口 檄文調印 時期 檄文版行 時機 檄文配布 洗心洞内 の池水埋 立

大塩が直接行動を目論見たるは、天保七年九月、即ち明春堺浜に丁打―大砲 射撃演習―をなすの名目にて、それ\゛/の支度をなし始めたる頃と測定す 可きであるが。之を門人等に告げたのは、何時頃であつた乎。彼の門人にし て裏切者たる、東組同心吉見九郎右衛門の吟味書によれば、天保七年十月初 旬、平八郎は窺に九郎右衛門を招き、先般来製造の火薬は、格之助丁打の為 めと称すれども、実は近年諸国遺作打続き、米価高直にて諸民難渋に及び、 既に甲州に於て一揆相発したりとの風聞あり。当表迚も不時に異変起るやも 計り難く、其上当時の政道宜しからず、隠居の身ながら、世を憂ひ民を弔ふ 大義を唱へ、計略を以て山城守等を討取り、御城を始、諸役所向、其外市中 を焼払ひ、豪家の者共貯置ける金銀並に諸家蔵屋敷に囲置ける米穀を、窮民 共に分遣し、其上にて、摂州甲山に楯籠り、時機を見合せ、大義を成就す可 き心底なりと物語り、檄文の草稿を読聞せ、平山助次郎、瀬田済之助、小泉 淵次郎、渡辺良左衛門、庄司義左衛門、近藤梶五郎、河合郷左衛門、守口町 孝右衛門、(白井)般若寺村忠兵衛(橋本)等は既に承知したれば、九郎右 衛門も、同志に加はる可しと勧められ、止むを得ず同意したりとある。 〔幸田成友著 大塩平八郎〕 尚又た今一人の裏切者東組同心平山助次郎の吟味書には、渡辺良左衛門が、 助次郎の宅へ来て、自然異変等あらば、忠孝の為めには、身命を抛たるべき か、先生(大塩)の御差図によりて存念承り度参上したりといふを聞き、不 審に存じたりとあるは、同年九月の事だ。 将た上記の如く、九郎右衛門は彼が勧誘を受けたる十月上旬には、助次郎以 下忠兵衛に至る迄、九名の同志者あつたと云ふが。然も橋本忠兵衛、白井孝 右衛門の申口には、板行刷の檄文を一覧して、同志に加入したるを十二月と し、助次郎の申口も同様十二月とし、其時には済之助、淵次郎、良左衛門、 義左衛門、九郎右衛門は、既に同意したる旨を、平八郎から聞いたとある。 而して檄文の裏面、及び軍令状に記名調印したるは、九郎右衛門、助次郎、 義左衛門は、之を天保八年正月八日とし、忠兵衛、孝右衛門は単に正月とし てゐる。 惟ふに正月八日が、愈よ義盟血誓の時期であつたらう。少くとも重なる連中 は、当日に於て之を挙行したのであらう。然も挙兵の準備は、前記の如く、 固より九月頃からにて、大塩は、殆んど全力を傾けて、大砲、棒火矢、鉄砲、 刀、脇差、其他武器武具の調達をした。 若夫れ其の檄文の版行は、白井孝右衛門、橋本忠兵衛の所言によれば、十二 月に出来たと云ふから、其の頃に彫刻せしめたものであらう。其の彫刻者は、                    ことさ 北久太郎町五丁目の版木師次郎兵衛にて、故らに其の檄文たる本体を隠す可 く、横に五六字づゝ彫る可く注文せられ、彫刻出来の上、之を組立て、夜中 に九郎右衛門忰吉見英太郎、郷左衛門忰河合八十次郎に刷らしめた。                       うこん 右は西ケ内或は美濃紙とも云ふ五枚続にて刷り、欝金色の加賀絹の袋に入れ、 袋の上には『天より被下候』と中央に題し、脇書には『村々小前のものに至 迄へ』と記し、裏には伊勢大神宮の御祓を結付け、上田孝太郎、額田善右衛 門等をして、其の挙兵に際して、之を大阪及び附近に配布せしめた。然もそ             いとま は恐らくは広く行き渡るに逞なかつたであらう。何となれば大塩騒動は、一     たちま 日にして乍ち平定したから。 二月一日には、人夫数十人をして、洗心洞内の池水を埋めしめた。而して彼                                 わざはひ は地中の赤鯉、金魚をも悉く之を生埋せしめた。所謂る城門火を失し、殃池 魚に及ぶの意味にて、彼が決意を示したものであらう。此の工事人夫頭は、 般若寺村鳶職卯兵衛にして、橋本忠兵衛の愛用したるもの、彼は部下四十余 名を率ゐて埋立工事に従ひ、大塩の兵を拳ぐるや、何れも之に従ぅた。或は 彼が工事を名として、予じめ人夫を集めたものであらうと云ふ説もある。

   
 


幸田成友『大塩平八郎』その106


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