Я[大塩の乱 資料館]Я
2008.4.6

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「大塩の乱関係論文集」目次


『近世日本国民史 文政天保時代』

その49

徳富猪一郎(1863-1957)著 民友社 1935

◇禁転載◇

    四九 実行の期日

婢妾処置 実行の約 を定む 狙へる機 会 同志出入 に好都合 書を売り て窮民施 与 民心を得 る方便 奉行遂に 黙許 施行範囲

大塩は天保七年十二月七日に、其の妾―彼には妻無し―ゆう、格之助妻みね、 孫弓太郎、養女いく、婢りつ等を、河内磐若寺村橋本忠兵衛に送り、同十五 日、橋本は復た彼等を摂州伊丹紙屋幸五郎の家に移した。此れは事前に先ち、 避難の為めであつた。 斯くて義盟に預る面々を、天保八年二月十五日の夜、洗心洞に会し、愈よ実 行の約束を定めた。同月二目西奉行堀伊賀守利堅既に大阪に至り、其の任に 就いた。従来の例に新奉行就任の際は、市中巡見の事があり、当時既に其の 布達があつた。それによれば、先任東町奉行跡部山城守が、市中を案内して 巡見し、最終天満に至るを十九日とした。 其日申刻(午後四時)両奉行、共に朝岡助之丞の邸に就て、休憩することゝ なつてゐた。浅岡邸は、大塩邸と南北道を挟んで、直ちに相対した。彼は実 に此の機会を捉へて、大事を挙げんと企てた。乃ち平山助次郎口書には、   同(二月)十五日夜、渡辺良左衛門罷越、堀伊賀守著坂に付、来る十九   日同人並に山城守同道にて、与力、同心屋敷巡見之節、飛道具を以て右   両人とも討取、城内へ致乱入候積之旨申聞、其節初て大切之企致候に紛   なき次第承知致候云々。 とあるを見ても、其の要領が能く判知る、尚ほ当日は、偶然にも、春期釈典 の日に当り、同志の出入、志気の鼓舞等、旁た以て好都合であつたことは、 云ふ迄もない。或は四月十七日東照宮祭日を以て、事を挙ぐる予定であつた と云ふ説もある。〔洗心洞論伝〕。然も平山助次郎の口書の通りが、事実で あらう。何となればとても四月迄延引す可き余裕は無かつたからだ。 彼は斯く期日を定むる以前、二月二日に、其の蔵書五万巻を売て、千余金を 得、書肆河内屋喜兵衛等をして、六、七、八の三日間に、窮民一万軒に、毎 戸一朱づゝ施与せしめた。その施行引札は、左の通りである。      口 上            近年打続米穀高直に付、困窮之人多く有之候由にて、当時御隠退大塩平   八郎先生、御一分を以、御所持之書籍類不残御売払被成、其代金を以、   困窮之家、一軒前に付、金一朱づゝ、無急度都合家数一万軒へ御施行有   之候間、此書付御持参にて、左の名前の所へ、早々御申請に御越し可被   成候。    但し二月八日安堂寺町御堂前を南へ入東側本会所へ七ツ時迄に御越可    被成候。                        河内屋 喜兵衛                         同  新次郎                         同  記一兵衛                         同  茂兵衛 此れは単に彼の助言を用ひざる奉行や、彼の相談に乗らざる豪富やに対する、 面ら当のみでなく、又た誠心誠意、窮民に対する同情のみでなく、恐らくは 事を挙ぐるに際して、先づ民心を得るのは方便と認むるの外はあるまい。如 何に大塩の為めに弁護する者あるも、悉くそれを否定し去る訳には参るまい。 併し此れは確かに手答へある可き方便であつた。 跡部山城守は、七日に至りて、之に干渉した。そは斯る事には先づ町奉行に 届け出て、其の認可を受くるが順序であるに、大塩は一切之を届け出でず、 遂ひに七日に至り、跡部より之を詰問した。大塩は隠居の身分故に、別段御                         あま 屈にも及ぶまいとて、其の不注意を謝し、今ま一日を剰すが、之を中止す可 きや伺ひ出でたが、跡部の方でも、新任町奉行堀の来著即下でもあり、面倒 の問題を起すにも及ぶまいとて、之を黙許した。 斯くて其の施行を受けたるものは、大阪三郷外三十三ケ町村に及んだ。此れ は単に漠然たる人心収攬策に止らず、恐らくは之によりて、人夫を徴発し、 軍役に使用せんとの下た心も加はつてゐたことであらう。而して此の施行札 の彫刻も、亦た檄文の彫刻者たる版木師次郎兵衛であつた。

      ――――――――――――――――――      大塩平八郎が陰謀 大坂の大塩平八郎が乱を成せしをり、自分の蔵書を売て金七百両許を 得たり。これを飢民の男子にのみ壱朱宛施し与ふ。婦女老人小児は大 勢群を成す時あやまちあらんもはかりがたしとて禁じたり。さて一朝 に二朱づゝ男子に施す事一万人にあまれり。事を揚げんとする前夜ま た一人に二朱づゝ施すべければ、朝とく来つどへといふよし刊刻して 摺たる紙一枚を嚢のものどもに分与ふ。しかれども事急に起りて発覚 し、計合期せずして来つどふもの少しとなん。これ史記惟陰侯伝に、 駆市人而戦之といへる計を用たる也。〔松屋筆記〕   ――――――――――――――――――

   
 


小山田与清『松屋筆記 第3』(抄)


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